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中村達也による書評


『マルクスの遺産』

塩沢由典著(藤原書店・5800円)

毎日新聞 2002年6月23日 11面 

中村達也 評

「捨て石」として読むマルクス

あるひとりの異色の研究者、その精神の遍歴記である。異色というのは、つまり、数学の研究の過程で、アルチュセールとスラッファの作品に出会い、研究分野を経済学へと転換したという経緯がまずある。スラッファを通じて経済学を始めるというのは、異例である。大抵はスミスやマルクス、あるいは新古典派やケインズからというのが、この国の多くの経済学者の辿(たど)る途である。そうした途を選択しなかったが故に見えてくるものがある。それを、大胆率直に語る。もちろん、アカデミズム村からの反発はある。今まで守ってきた暗黙の了解が破られ、思いがけない問題提起によって楽園が踏みにじられると感じるからである。

社会科学を専攻するものなら、大抵はどこかでマルクスと出会う。どのような出会いをするか、それはほとんど偶然に近い。しかし、出会いの後に、それとどうつき合うか、あるいは別れるか。それは自らの選択である。マルクス主義の公式を早分かりする秀才への不信を表現して、「田舎の鈍才」という言葉を好んだ宇野弘蔵に、著者は惹(ひ)かれるという。そして、労働価値説を拒否する。二〇世紀の共産主義の歴史が人類共通の負の遺産であり、それは正の遺産とともに背負わねば、ともいう。教典のごとくマルクスを奉ってきた人にとっては耳の痛いところだろうし、古典としてマルクスを読んできた人にとっても随分と厳しい問題が突きつけられている。「捨て石」としてマルクスを読む、これが著者の立場である。

その時に何が見えてくるのか。一例をあげよう。著者は、いま注目されている複雑系経済学のリーダー的な存在である。主流派の新古典派が軸とする「均衡」に対して、何よりも「再生産」の視点を重視する。無時間の均衡ではなく、歴史的時間の中の再生産、過程としての経済に注目する。そしてこれは、実は、古典派が強調してきたものであった。だから、古典派をマルクスに到達するための単なる抜け殻として見るのでなく、むしろ古典派の最後の一人としてマルクスを位置づける。いうなれば、著者の立場は現代古典派である。スラッファの影響がそこにある。

そして、ひとたびそうしたものとしてマルクスを読めば、実に興味ある論点が甦(よみがえ)ってくる。それは商品語を語っている。再生産過程の見事な分析がある。諸制度の変化を利害の対立から分析する視点がある。技術の進歩に対する深い切り込みがある。等々。これらはすべて、複雑系経済学のまたとない栄養源である。複雑系経済学では、人は時間の推移の中で状況を類型化し、それに応じた定型行動を採る。もちろん定型はひとつとは限らない。複数の定型があれば、それらの良否の比較があり、進化がある。すべてを予測し比較した上で採るべき行為を瞬時に決めるとする、新古典派の体系は壮大な虚構だというのである。

本書に収められている対談の中で、藤田省三氏が語っている台詞「体系を作ると継ぎ目の部分にウソが入る。その点で正直でなくなる。」これは、著者のスタンスでもある。本書には、一九七五年から現在までの、二〇近い文章が収録されているが、著者はそれらを、無理にひとつの体系として整合化したり正当化したりしない。自らを真理の高みに置いて、他のあらゆる立場を告発する「思想の文体」を好まないからである。読んでいて、その継ぎ目のところがよく見える。その部分が、私には、著者の精神の遍歴記としてとても興味深かった。


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