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関西経済論 原理と議題 内編各章解説

  塩沢由典著、晃洋書房発行、2010年3月30日刊。xviii+583ページ。

内編 考える枠組み
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第1章 あやまった経済思想
第2章 経済発展とはいかなる過程か
第3章 京阪神大都市圏
第4章 関西の頭脳機能と神経機能
第5章 道州制について
第6章 関西経済論とわたしとジェイコブズ


第1章 あやまった経済思想

1 50年前の経済政策
2 この50年の経済政策
3 新古典派マクロ経済学の理論構造
4 近代経済発展の3様式
5 需要飽和の経済学
6 経済発展の単位
7 都市のはたらき
8 本書で用いられる概念

第1章は現在の経済学およびそれに密接に対応する経済政策の現状に対する批判です。経済学と経済政策の主流の考えが以下のようなものであるため、関西という地域の経済発展を考えるにあたっても、ぜひ必要なことと考えました。内編のタイトルを「考える枠組み」としたのも、その点に関係しています。経済学の基本のところから考えなおさなければ、関西経済をもきちんと議論できないという現実があると考えます。

まず、1970年代以降のマクロ経済学では、いわゆる「反ケインズ」革命がおこりました。1980年以前に経済学部で経済学を学んだ方には、ひょっとすると想像が付かないかもしれませんが、1980年代以降のマクロ経済学は、ニュークラシカルと自称するものでも、ニーケインジアンと称するものも、基本的に「供給制約の経済学」に基づいています。経済政策としても、(小泉構造改革に代表されるような)供給条件の緩和に力点をおくものが中心となっています。しかし、1992年以降の日本を見ますと、経済成長を阻害する要因は、供給制約によるよりも、需要制約にあります。したがって、供給制約の経済学から需要制約の経済学にパラダイム転換する必要があります。

ただ、1990年代の経験が示すように、従来のケインズ政策では日本経済の閉塞を打ち破ることはでません。財政出動に基づく総需要政策では、持続的な景気好転をもたらすことばできず、いわゆる景気の「腰折れ」と財政赤字の積み増しという事態を招きます。したがって、需要創造を正面に据えた政策が必要です。簡単にいえば、「供給制約の経済学」から「需要制約の経済学」へ、経済の局面観としては、「生産性主導経済」から「需要飽和経済」へと転換しなければなりません。このようなことは、経済学一般としても、まだじゅうぶん議論されていないことですが、関西経済を議論する前提として、必要なことと考えます。このため、第1章が「あやまった経済思想」、第2章が「経済発展とはいかなる過程か」と理論的な議論が中心となりました。

そもそも経済政策の主体が(日本銀行をふくむ)中央政府にあるというマクロ経済学の先入見自体を変更する必要があります。政府ができること(総需要政策、金利政策、通貨政策、税制変更)などによっては、経済が世界のトップ水準に達した現在では不可能なことだと考える必要があります。日本というのは、経済の発展単位ではなく、施政権と文化的統一の範囲でしかありません。経済の発展単位は、一日交流圏を中心とする都市圏です。それは関西でいえば、京阪神大都市圏です。この考えをわたしはジェイン・ジェイコブズに学びました。日本経済論でなく、関西経済論(あるいは他の固有名詞をもった地域経済論)こそが、経済政策の基礎学問でなければならないという考えにこの本は立っています。
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第2章 経済発展とはいかなる過程か

1 工場誘致政策
2 見えなくさせている構造
3 経済成長の要件
4 生産性上昇の機構
5 豊かな経済はいかに成長するか
7 都市と新結合
8 都市の規模と事業化の可能性
9 輸出と輸入/都市地域間の交易
10 関西経済論への含意と議題


深く考えている人にとっては、地域の自立は、どの地域・地方でも、強い願いです。しかし、それを実現する方途となると、いろいろまちがった経済政策が採用され、また考えられています。京阪神大都市圏内にかぎっていえば、工場誘致政策は、そのようなまちがった政策の代表的なものです(京阪神大都市圏以外でも、まちがいというのではありません。誤解のないよう)。では、京阪神大都市圏が追求すべき経済政策とはなにか。そのためには、従来の産業政策や経済政策を離れて、経済発展がいかなる過程であるか、深く問いなおす必要があります。

第1章第4節「近代的経済は津店の3様式」で取り上げた「比例的成長経済」を除くと、経済発展/経済成長が持続するためには、生産性の上昇機構と需要創造の2条件が満たされる必要があります。生産性上昇は、多くは企業内の過程です。社会的生産性の向上は、道路や港湾の整備など、社会資本充実が大きな要因でした。生産性上昇が経済成長の主動因であった時代には、経済発展は、既存企業と国の政策によってうまく進めることができました。社会基盤や制度を(欧米に習って)すばやく一律に整備し、各企業が欧米の先進事例に倣って生産性上昇に努力すればよかったからでう。しかし、1980年代以降、日本経済がトップグループに入って以来、日本経済は新しいフェーズに突入しています。そのような経済では、需要の創造が成長の基本的要因となります。しかし、日本は、キャッチアップ時代の思考習慣から抜け出すことがなかなかできず、トップラナー時代に必要な思考習慣・経済システムを作りだすことができていません。そのため、新需要の創造ができず、長期の低迷を続けています。

新しい需要を創造するのは、中央政府の政策としては、なかなかできるものではありません。現在は、液晶パネル、プラズマパネル、太陽電池などが大阪湾沿岸に立地して、風が吹いていますが、こうしたものはそれぞれの企業の長い研究開発努力の結果として存在するものです。電気自動車についても、似たところがあります。その上、政府主導の産業政策には、どうしてもボリュームの大きな少数の産業に偏ります。しかし、都市経済の発展にとって重要なのは、小さな多様な財・サービスの商品化です。経済発展の多くの部分は、企業の研究室からではなく、都市という環境がもたらすものです。なぜそうなのか。第8節「都市の規模と事業化の可能性」では、なぜ都市のみが多くの新商品・新サービスを生み出すことができるのか。その理由として、第8節では、商品の需要が種類に関して冪(べき)分布をなすという仮説をもとに議論しています。これは、クリス・アンダーソンの『ロングテール』にヒントを得たものです。これはまだ仮説段階のものですが、こような分析は、経済発展、需要創造論、都市経済論のどの分野をとってみても、かってなかった新しいものと考えています。すこし数学が出てきますが、数式を飛ばしても理解できるように書いてありますから、せび挑戦してください。
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第3章 京阪神大都市圏

1 一日交流圏という概念
2 京阪神大都市圏
3 日本の大都市圏
4 世界の大都市圏
5 世界における京阪神大都市圏の位置
6 類似大都市圏との比較
7 創造都市はどのくらいの人口を必要とするか
8 世界の先導都市
9 アジア大都市圏との競争
10 世界の中の京阪神大都市圏


都市ないし都市地域が経済発展の基本単位であるという考えに立つとき、一番重要なことは、ではその都市地域をどのように同定するかということです。本書では、そのために「一日交流圏」という概念を採用しています。一日交流圏とは、「普通の人がほぼ毎日、顔を合わせることがてきる範囲」というのがその定義です。大阪と東京とは日帰りできる交通圏内ですが、費用と時間のことを考えると、普通の人には「ほぼ毎日」というのはとうてい無理です。一日交流圏に類似の概念として「都市雇用圏」といった概念が金本良嗣・徳岡一幸両氏によって提案されています。この定義では、東京都市圏は、横浜・川崎・千葉・さいたまを含む単一の都市圏になりますが、関西では、大阪都市圏・京都都市圏・神戸都市圏が分離独立してしまいます。このような実態もありますが、他方、京都・神戸から大阪にはたくさんのひとが働きに出たり、通学したりしています。研究会といえば、京阪神を含めた動きがあります。そこで、本章では、出発点の最寄り駅から目的地の最寄駅まで1時間以内という範囲を一応の一日交流圏と設定しています。これは、JR東海道本線・山陽本線の新快速電車を除いて、片道運賃がほぼ1000円という範囲に一致します。この範囲内の人口を推計すると、京阪神大都市圏は1800人という人口規模になります(大阪都市圏だけでは1200万人)。

この人口規模は、世界の大都市の中でも10位以内に入る巨大なものです。このことに、さらに住民一人あたりの所得を考慮すると、京阪神大都市圏は、都市圏の総需要がニューヨーク、東京、ロサンゼルスについで第4位ということになります(ニューヨークと東京の差はわずかですから、最近の円高で現在では東京が世界第1位かもしれません)。このような大きな総需要をもつ都市圏であるということが、うまく生かされていないのではないか。京阪神大都市圏が都市としてもつ創造性(経済発展という面では、新需要の創造)をじゅうぶん発揮するためには、いったいなにが必要かというのが、内編全体を通しての主題です。そのために、世界の特徴的な大都市について、いろいろな角度から考察しています。たとえば、両大戦間のウィーンがそのひとつです。オーストリー・ハンガリー帝国の消滅により、国土と人口が激減し、多数の帰還者たちあふれ、ウィーンではひとびとはひどい住宅事情を余儀なくされました。そういうウィーンという町が、哲学であれ、経済学であれ、数学であれ、20世紀を代表するような学問を多くの領域に渡って生みだすことができたのはなぜか。そこには、カフェや仕事場などを使った、活発な討論の輪がありました。ウィーンは、その意味で知的に沸騰した都市でした。

関西が経済的に活性化するためには、関西がいまいちど知的に沸騰した都市にならなければならない。第3章には、こうした(地域経済論であれ、日本経済論であれ)普通の経済論では取り上げられないような議論がされています。これは奇をてらったのではなく、持続的に発展する知識基盤経済を構築するには、このような議題が不可欠だと考えるからです。
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第4章 関西の頭脳機能と神経機能

1 関西からの情報発信
2 情報の域内流通
3 地域の編集機能
4 地域の批評機能
5 議題設定能力


外編第7章「関西からの情報発信」の解題にも書いていますが、わたしも最初は「関西からの(全国あるいは世界へ向けての)情報発信」が重要と考えていました。しかし、よく考えていくと、情報発信の前に、関西という地域内部に流れる情報のあり方のほうが、情報発信より重要と考えるようになりました。なぜなら、それこそが関西の「頭脳機能」であり、「神経機能」だからです。

中国やインドに追い上げられている現在、日本も関西も、同じ製品(で輸出可能なもの)を作っていては、多くの人口を雇用することはできません。輸出で食べられる人口は、輸出量/労働生産性で規定されます。輸出を減少させないためには、労働生産性を向上させる以外にないのですが、そうすると輸出製品の生産に従事できる人の数は、どんどん小さくならざるをえません。その速さは、少子高齢化にともなう人口の減少以上の速度で進むでしょう。そうなると、中国やインドではできない製品を作ればよいわけではが、それもすぐに追いつかれます。したがって、技術開発・製品開発を含めて、経済全体が知識や感性に基盤を置く創造的な活動に重点が移行します。

京阪神大都市圏が、新しい美的感覚を育て、新しい価値観やライフスタイルを生み出すことができる地域となるためには、優れた才能ある個人が大切なことはもちろんですが、都市そのものが、そうした新しいものを批評し、育てあげる働きをもたなければなりません。出版や放送などのマスメディアも、大学などの研究教育機関も、それぞれ重要な頭脳機能・神経機能を果たしていますが、それらがうまく機能するためには、メディアが存在するだけでなく、人々が学問や芸術に高い関心と批評能力をもたなければなりません。関西では、新聞やテレビは、比較的充実しています。基盤はあるのです。第4章には、記者や制作者たち、さらには全体の編集者・編成者たちが、自分たちの行動や思考が関西経済の動向にも影響するという自覚をもってほしいというメッセージをこめています。
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第5章 道州制について

1 なにを議論すべきか
2 「道州制」をめぐる混乱
3 いかな道州制か
4 道州制に向けて準備すべきこと
5 なぜいま道州制なのか
6 道州制でなにが変わるのか
7 道州制の経済効果
8 府県ではなぜ不十分か


地域主権とか、地方分権といったことばが、まいにち、新聞やテレビ・ラジオで流されています。多くにホームページやブログでも、これらは関心の高い主題です。しかし、現在の地方分権論議の多くは、中央政府・地方政府の財政難に端を発した受身の発想のものが大部分です。そのような思考の流れの中では、道州制も、府県の合併による行政効率のアップといった観点からのみ議論されています。そこで、財源問題がいちばん大きな議論になっていますが、わたしは道州制は、歴史的任務を終えた中央政府一括の制度設計・政策立案から脱却し、各地域が自分の頭で制度設計と政策立案を行うためのものと考えています。そのためには、財政自主権(財源問題)だけでなく、道州政府が法律も作れることが必要です。これも、一部の議論では、自治立法権などいう主題で取り上げられていますが、国の法律の網が細かく張り巡らされた現状では、国の法律に違反しないかぎりで、道州が条例を制定しても、ほとんど意味がありません。中央政府の法律をいかに削減して、多くの領域を道州政府にゆだねることができるかが道州制の成否を握っています。道州制が府県合併であっては、平成の大合併(起債の緩和などをえさに基礎自治体の合併を推進した)と同じく失敗に終わります。

道州制は、財政学者と行政法学者とだけに任せておいてよい問題ではありません。道州制は、キャッチアップ時代からトップラナー時代へと国のあり方を転換していくための、ひとつの手段です。各地方が、政策実験をしながら、時代の新しい問題を解決していく体制を作るというのが、道州制の目指すべき方向だと考えます。その観点からは、道州制について経済学者として考察しました。道州制の経済効果は、行政の効率化などいう矮小なものであってはなりません。各地方がそれぞれの特性を生かして、試行錯誤しながらも、大胆な政策実験を進め、新しい社会経済の基盤を作ってかなけれはなりません。第4章で考察した「頭脳機能」が京阪神大都市圏全体に働くためには、京阪神全体を対象とした議会と立法権とが必要です。

知事の中には、分権化さえ進めば、道州制はいらないと考えている方が少なくありません。しかし、それは、現在の法体系の中で、府県がたんに執行機関として機能させることができると主張しているに過ぎません。府県が主張してるいのは、権限の委譲です。それでは、基本の設計は国でやってくれと暗に頼んでいることになります。自前で、法律を作り、経済政策に失敗すれば、財政もままならないという自主自立の精神が必要です。現在の府県は、明治時代の交通体系を前提に制定されています。現在の経済活動は、府県の範囲を超えて広がっています。経済の発展単位が大都市圏にあるとするなら、各大都市圏がそれぞれ道州を構成し、自分で法律を決め、財政を規律することが必要です。

道州制の論議は、議題そのものを大きく転換する必要があります。
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第6章 関西経済論とわたしとジェイコブズ

1 関西経済論との出会い
2 経済学への不満
3 大阪市立大学経済学部とすばるプラン
4 複雑系との出会い
5 ジェイコブズとの出会い
6 ジェイコブズとわたし
7 経済諸団体との交流
8 ベンチャーという主題
9 関西経済の問題点と議題設定
10 関西ベンチャー学会
11 大阪市立大学大学院創造都市研究科
12 関西アーバン銀行寄附講座と関西経済論
13 ジェイコブズと複雑系の経済学


『関西経済論 原理と議題』は、関西経済論が日本経済論に理論的に先立つ存在であるという認識に基づいています。もちろん、関西経済論だけでなく、北海道経済論、中京経済論、九州経済論、沖縄経済論など、固有名詞をもった司法経済論が、それぞれ同じ資格にあるものにとして、日本経済論に先行します。日本経済論そのものは、それら各地方経済論を集大成するものとしてあるべきものです。しかし、現状は、こうしたあるべき姿とはかけ離れています。

日本の大学の経済学部で、日本経済論のない大学はまずないでしょう。ところが、北海道を除くと、各地方の地域名を関した経済論(つまり関西経済論、北海道経済論、九州経済論、沖縄経済論など)が講義されている大学はあまりありません。例外的にそうした経済論が授業科目として挙げられていても、専任の教員がやっているのでなく、非常勤講師によるものか、多数の外部講師によるオムニバス講義になっています。これは固有名詞をもった地域経済論が、第二級の経済学とみなされていることの反映でしょう。しかし、それでは、地方の時代、地方分権、地域主権は実現できません。各地方の経済政策をどうするのかという学問的基礎がないからです。どこかの国の経済政策の物まねをしたり、国の政策をただ執行するだけでは、持続的に発展する知識基盤経済は不可能です。

一国水準の経済論に先行するものとして、各地方の経済論があるべきだというのは、いまのところ広く認められた考えではありません。しかし、地方の自立を図るには、その地方の経済論が必要です。わたしがこうした考えをもつようになったのは、ジェイン・ジェイコブズとの出会いからでした。直接会ったというのではなく、かのじょの2冊の本、『都市の経済学』(Cities and the Wealth of Nations)と『都市の原理』(The Economy of Cities)との出会いからです。ジェイコブズは、第一の本で、経済学は重商主義の時代(つまりアダム・スミス以前)から、経済の基本単位を国民国家とする過ちを犯してきた、と指摘していました。これは、私にとっては衝撃的な出会いでした。ちょうど、大阪市立大学に職場を得たところでしたから、これはひとつの啓示でもありました。大阪経済への関心が次第に広がり、関西経済論にいたった経緯が第6章には事細かに書いてあります。難しい議論はいっさいありません。ある変わった経済学者の自伝でも読むつもりで、気楽に付き合ってくだされば幸いです。



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