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進化経済学ハンドブック

編集者自身による書評

塩沢由典(編集委員長) 

ハンドブックの説明の前に、進化経済学そのものも説明が必要かもしれません。進化経済学の起源は、アメリカの経済学者Th. ベブレンにまでさかのぼります。その意味では100年以上の歴史をもっていますが、まだ「新しい学問」です。一時は死んだと考えられた観点が、この20年ほどの間に目覚しく復活し、また同時に新しい分析方法が開発されて、経済学のなかでも、近年、最先端の動きを見せている学問です。日本では、ちょうど10年前に「進化経済学会」が発足しています。

進化経済学会編の当ハンドブックは、こうした新しい動きを知らせるとともに、進化経済学そのものを学びやすいものとするため企画・編集されました。3部構成で

第T部 概説/学説/関連理論
第U部 事例
第V部 用語/人名
からなっています。

このハンドブックの特徴は、なんといっても第U部「事例」にあります。67の事例の各編が原則2ページに収められています。その範囲も、商品、技術、行動、制度、組織・システム、知識と広範にわたっています。長い年季を経た経済学者でも、これほど多様な事例は頭に入っていないでしょう。毎日、一例だけ読んでもらっても、結構楽しい読み物になります。読むのに予備知識はいりませんし、もっと詳しく知りたい方のためには参照文献も付いています。

経済学者や経済学を学ぶ学生だけでなく、商品開発・技術開発に悩んでいる人、マーケティング関係者に読んでもらえれば、思わぬヒントが得らるかもしれません。

「学説」では、進化経済学に流れ込んでいる、あるいは現在の進化経済学の主要なインスピレーションとなっているさまざまな思想潮流を取り上げています。比較的過去に属する「歴史学派の経済学」「旧制度派経済学」「シュンペータ学派の経済学」などから、現在の話題である「比較制度分析」「移行の経済学」「レギュラシオン学派」まで17の潮流が取り上げられています。経済学の諸学説はもとより、「進化生物学」や「進化の思想史」もあります。アメリカ主流の経済学の影に隠れている、いわば「マイナー」な経済学も取り上げられています。たとえば、「国民的イノベーション・システム論」などは、最近の産業クラスター、知的クラスター、技術立国に関係した経済学です。クラスター論が、単なる地域の産業集積集積論として浅薄な形で議論されることが多い現状から見れば、経済政策の担当者にはぜひこうした理論・学問のあることをまず知って考えてもらいたいものです。

「関連理論」には、主として分析方法に注目して、11の理論・分析法が紹介されています。大学院生がこれからテーマをもって経済学の研究に取り組もうとするとき、どういう手法・分析が有効かは、最初からは分かりません。大きな地図をもっていて、必要に応じて勉強する以外にいりません。そうした地図を頭に入れるために、コンパクトに書かれた「関連理論」は、他ではなかなか得られない便利なコレクションと考えます。

いろいろな学説や理論を読んでいく際、新しいことば、知らない用語に出会います。そうしたものは第V部 用語/人名 で調べてもらえれば、簡単です。用語の中には、2000字のかなり長い項目も含まれています。「技術革新のパラダイム展開」「進化に開かれたシステム」「ミクロ・マクロ・ループ」「個体群思考」などのように進化経済学に固有の概念や、「プロスペクト理論」「効率市場仮説」「コンティンジェンシー理論」「所有権」などのように、「学説」「関連理論」で取りあげられなかった理論や考え方の解説もあります。

もちろん、進化経済学とはなにかについても書かれています。それが「概説」です。ただ、進化経済学は今まさに発展している経済学です。確立した標準理論・標準体系が出来上がっているわけではありません。しかし、進化経済学とはなにか、一応の標本/サンプルを示す必要があるでしょう。アイデアはいろいろな人に出してもらうにしても、全体が寄せ集めでなく、一貫した体系となるためには、だれが一人が書かなくてはなりません。その役を私が引き受けています。これは最終的な形であるとも、決定的であるともいえません。しかし、進化経済学と経済学一般をひろく見渡した上で、進化経済学がどのようなものであるか、いちおうの概念をもってもらうことはできるでしょう。進化経済学を専攻したいという学生は、「概説」で概観をつかみ、自分のテーマによって、「学説・関連理論」その他から必要な知識を再構成すれば、テーマに即した専攻理論と分析方法を見つけ出すまでの長い試行錯誤の過程をこれまでよりはかなり短くすることができると思われます。

現在主流の経済学に不満である、あるいはひれに飽き足らない方にも、このハンドブックは示唆的だと思われます。自分が考えていること、自分に近いテーマが過去にどういう学問で、どのように使われているか、比較的簡単に知ってもらうことができます。新古典派の経済学のどこに問題があるかについては、「概説」の第7節「新古典派の経済学のドグマとアノマリー」にまとめられています。その代わりにどう考えたらよいのか。どういう方法があるのか。それらについても、第4節「市場経済の諸原理」、第5節「分析の枠組み」、第6節「現代経済の分析例」にさまざな例が示されています。より詳しい展開については、学説や関連理論を頼りに、参考文献にあげられている書物などにまずアプローチしてください。

経済社会の実証研究に取り組んでいられる方、あるいはこれから経済社会の実証的研究に取り組もうとされている方にも、ハンドブックは大きな示唆に富んでいます。詳細は藤本隆宏さんの書かれた「実証社会科学の進化論的枠組み」をお読みいただかなければなりませんが、新古典派経済学の前提する事前合理性という観点から落ちてしまう諸現象を事後的合理性という観点から理解しなおす枠組みとして進化論的分析があります。藤本さんの解説は、進化経済学の核である<進化の視点>を理解するにも、重要な文献になっています。

進化経済学には、「学説」にみるように多くの経済思想やその他の思想、さらには歴史的経験から得られたさまざまな知見が流れこんでいますが、近年の進化経済学は、新しい理論と分析装置の発見・開発によって革新された経済学です。最初のきっかけとなったのは、ネルソンとウインターのAn Evolutionary Theory of Economic Change (1982) ですが、その後「非線形動学」「複雑系」「進化ゲーム」などの方法を取り入れて、エージェント・ベースのシミュレーション(ABS、あるいは「マルチ・エージェント・シミュレーション」MAS)など情報工学の最先端と結びついています。そのひとつが人工市場です。この方面では、日本は世界をリードする立場にあり、和泉潔が円ドル為替市場を分析した「人工市場」や人間も参加できる株価指数先物の実験市場である「U-Mart」など具体的な市場分析装置のほか、出口弘らのSOARSや井庭らによるPlatBoxなど、汎用性のあるシミュレーション言語の開発も進んでいます。「経済物理学」や「複雑系」は、正規分布一辺倒だった価格変動に対する従来の常識を覆して金融工学の前提を変えつつありますが、これらの知見とエージェント・ベースのシミュレーションが将来結びつくことも考えられます。

エージェント・ベースのシミュレーションあるいはマルチエージェント・シミュレーションは、簡単にいえば、コンピュータの中に仮想的な経済を作って実験しようというものです。経済では、対象の性質から実験は不可能といわれていました。しかし、これには異論がありえます。実験室レベルで実証的な検討を行おうとするのが「実験経済学」です。計画経済は、20世紀最大の実験だったと考えるこもできます。計画経済から市場経済への移行も重要な実験ともいえます(「移行の経済学」)。さらに、現在目の前で起こっているさまざまな事象を分析する実証的研究、過去の事実を再構成する歴史研究から多くの知見を得ることができます。シミュレーションは、こうした<広義の実験>の幅をさらに大きく広げ、現在主流の経済学が閉じ込められがちであった数学的定式という檻から経済学を解放してくれる可能性があります。

自然科学において実験という方法が確立するまでに数世紀を要したように、シミュレーションにはまだ方法論として未解決な問題がたくさんあります。しかし、それらは抽象的な哲学的議論によって解決されていくのではなく、たぶんに脳や市場経済のような複雑な対象にシミュレーションという新しい武器がどれくらい真の知見をもたらしてくれるかによって試されていくでしょう。言葉を変えていえば、シミュレーションという方法が真に試される場のひとつが経済なのです。進化経済学は、科学研究における第3の方法であるシミュレーションあるいは計算科学と切り結んでいるのです。

だいぶ宣伝が多くなりましたが、出版されたあと読み返してみての反省は、もちろん、あります。個人的なことをいえば、「概説」の第3節「進化の総過程」では、「イノベーション」という項目をひとつ立て、その実現過程について論じておくべきだったと反省しています。編集としては、「用語」で拾うべきだったものがまだかなりあます。学説ないし関連理論としても、入れておくべきだったと思われる学問分野がいくつかあります。「進化心理学」はそのひとつです。この学問そのものが、人間行動の進化論的理解に示唆を与えるものですし、進化経済学に強い影響を現在も与え続けているハイエクとの関係においても重要なものです。日本ではまだほとんど知られていない「biosemiotics」も、人間行動の進化論的理解を深めるものとして留意すべき分野です。こういう不満もありますが、とにかくこのハンドブックは、この分野では世界最初の試みです。大いにご利用いただき、ヒントにしていただければ幸いです。





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