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「エコノミストの読書日記」5 連載86

人類の危機とセーフティネット

塩沢由典(大阪市立大学創造都市研究科長)

 トリインフレエンザが日本にも入ってきた。山口と大分のトリインフルエンザは、第1次勃発でなんとか食い止めたが、京都府では、2次勃発が起こった。カラスの感染例が確認されており、今後もどう推移するか油断をゆるさない。トリのH5N1型インフルエンザ感染が確認された地域は、日本のほか、中国の多くの省とベトナム、ラオス、カンボジア、タイ、インドネシア、韓国と広域にわたっている。

 トリインフレエンザは、養鶏農家に大きな被害を及ぼすだけではない。人間にも、感染の可能性がある。現在問題になっているトリの強毒型インフルエンザウイルスは、A−H5N1と分類されるもので、A型インフルエンザのタイプとしては新しい。人間への感染が確認されたのは1997年の香港が最初である。18人が感染し、6名の死亡者が出た。その後、中国や香港などアジアの各地の養鶏場で散発的な流行が起きていたが、今年に入り、ベトナムとタイで人間への感染が確認された。ベトナムでは感染者22名のうち15名が死亡、タイでは感染者11名のうち7名が死亡している(3月12日現在、感染症情報センターによる)。

 現在までのところ、トリ強毒型インフルエンザは、トリからヒトへの感染例に限られ、養鶏場などでウィルスを大量に浴びないかぎり感染しないとされている。しかし、ウイルスは、つねに小さな突然変異を起しているし、ときには思わぬ大きな変異も起す。もしヒトからヒトへと感染する変種が発生すれば、人類にとって大変な事態となる。

 1918年に出現したスペインかぜは、A−H1N1型ウイルスによるもので、世界中で5億人以上の感染者と4000万人以上の死者を出した。その後、このタイプはイタリアかぜ、ソ連かぜなどとして何度か大流行しているが、大きな被害が出ないのは、すでに多くの人が同型のウイルスに対して抗体を持っているからである。だれも抗体を持たない新型のウイルスは毒性が強く、香港、ベトナム、タイの例からも分かるように高い死亡率を示している。

 さいわいA−H5N1型インフルエンザ・ウイルスは、まだ、ヒトからヒトへと効率よく感染する能力を獲得していない。しかし、そのような変異型が出現しないとも限らない。もしスペインかぜと同程度の感染力と病原性をもつ新型インフルエンザウイルスが出現すれば、短期間に世界中で甚大な被害が出ると推定されている。全人口の25%から40%(15億から24億人)が感染・発病し、6000万人以上が死亡する。トリ強毒性インフルエンザでの致死率は30%を超えているので、最悪の場合には人口の10%近く(5億から6億)が死亡する可能性まである。

 楽観的な推定でも第2次世界大戦の人的被害(推定死者数6000万人)と並ぶ重大な事態である。災害がきわめて短い期間に起こることも問題を難しくする。スペインかぜは7ヵ月かかって全世界に広がったが、交通の発達した現在では、1ヵ月以内に全世界で多数の患者が出はじめ、その後2〜3ヶ月にわたり集中的な大流行が起こるという。現に、昨年騒がれたSARSは、1ヶ月で32ヵ国に飛び火したが、中国をのぞくすべての感染例は、香港のあるひとりの患者から感染・伝播したものと判明している。

 医療の発達した現在では医師や病院がなんとかしてくれるだろう、と期待してはいけない。医療スタッフが感染して病院が正常には機能しなくなる可能性が高いし、一ヶ月の間に人口の4分の1もが病気になるという事態を日本の医療は経験していない。薬や医療器具なども不足となり、十分な手当ては期待できない。

 もし上のような大流行が起これば、これは「現代の黒死病」という以外に表現のしようのない事態となる。1347年にシチリアに上陸したペストは、その後の3年間にヨーロッパ各地にひろがり、全人口の3分の1を奪ったといわれている。ヨーロッパの歴史を変えたといわれるが、21世紀の現在でも、このような被害が生まれれば歴史は変わらざるをえない。

  * * *

 感染症は、一時期、克服された病気とされていた。ワクチンや抗生物質の発見などにより細菌性の感染症は、人類にとって重大なものでなくなった。天然痘は、1980年に根絶宣言が出された。ポリオもアメリカ地域や西太平洋地域では根絶宣言が出されている。結核やハンセン病もほとんど克服され、後はガンと生活習慣病だとされた。しかし、近年、AIDSが世界中に蔓延して社会を脅かしているほか、日本では結核の再流行もみられ、昨年は新型コロナウイルスによるSARSが世界を揺るがした。さいわいSARSは、医師たちの献身と研究協力により現在までのとのところ封じ込めに成功しているが、新型インフルエンザのように、人類全体の危機につながるような感染症が後を絶たない。

 『感染症とたたかう』は、国立感染症件研究所の医学研究者2人による解説である。インフルエンザの感染機構を分子レベルで解明することに貢献した医師が、WHOにおける国際協力の責任者としても活躍し、その知見をも織り込んで書いた。この本を読むと、日本の感染症対策はまだ十分進んでいるとは言えないが、人類の危機として感染症問題にとりくんでいる専門家がいることは心強い。本書によって社会の理解も深まるだろう。

 新型インフルエンザの流行は、著者たちが指摘するように、社会の危機管理の問題である。スペインかぜは86年前、アジアかぜは47年前に出現した。新型インフルエンザは、そう頻々に発生するものではない。しかし、いったん発生・流行したときの甚大な被害をかんがえると、いまから準備して流行を小さなものに封じ込めることが重要である。

 50年に一度しか起こらないようなことを経済学はほとんど考慮に入れていない。日々日常の取引を説明しなければならないという使命からいえば、これは仕方ないことかもしれない。しかし、経済を本当に知るためには、このような危機に対し経済がどのように反応するか、あるいは対応できるように設計されているかについて理解していなければならない。

 『逆システム学』は、このような希な危機にも、生命や経済が対処できるのは、それが多重フィードバック機構によって制御されているからであるという、新しいシステム像を提示している。著者のひとり、金子勝は、以前から経済を制度の束と捉えることを提唱してきた。それとセーフティ・ネットとどうどう繋がるか、わたしには全体の論理が読めていなかったが、今回の著作でのそのあたりが明快になってきた。経済は1929年の教訓を制度として取り込んできたが、75年を経た現在、われわれは検証を欠いた安易な制度改革に取り掛かってはいないだろうか。

 人間のDNA配列のうち、構成要素としての蛋白の配列を決めるのはわずか2%。残り98%は、調整機構にかかわっているという。市場における短期の調整機構のみで経済の安全が確保されると思ってはならないだろう。

 著者のもう一人は、遺伝子レベルの調整機構から血管を研究している医学者である。生物の複雑な調整機構にかんする最近の知見は、経済システムを理解するにも有力な示唆を与えている。

岡田春恵・田代眞人『感染症とたたかう』岩波新書、870、2003年12月。

金子勝・児玉龍彦『逆システム学』岩波新書、875、2004年1月。


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