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「エコノミストの読書日記」3

天才たちの誤算か、学問の限界か

塩沢由典(大阪市立大学創造都市研究科長)

 金融工学という分野がある。日本でも、この数年の間に、かなりの数の大学に金融工学の講座や専攻などが設けられた。本屋さんでも、経済学の棚の中では、近年一番成長率が高く、すでに相当の面積を占めている。

 従来の金融論が制度や政策に偏っていたのにたいし、金融工学では数学的な手法に基づく分析が中心である。1960年代以降に発展した分野ではあるが、すでに二回、ノーベル経済学賞の対象となった。

 金融工学は、その発達が市場を育てたという側面をももっている。ある商品を一定数・一定価格で買う(あるいは売る)権利をオプションという。ブラック=ショールズ式は、株式のオプション価格を与える公式である。一定の仮定のもとに数学的な厳密解として解かれたという点で、金融工学にとっては金字塔的存在である。1997年のノーベル経済学賞は、この公式の発見に与えられた。1973年、ブラック=ショールズ式が発表されると、その公式は電卓に組込まれて、オプション取引に従事する人たちに参照されるようになった。オプション取引はすでに始まっていたが、いくらで取引したらいいか手探り状態だった。ブラック=ショールズ式の出現によって、オプションは、価格の高低を判断することのできる商品となり、多くの取引者が参加できる本格的な市場になっていった。

 この4半世紀、派生商品市場を含む金融市場の発達は著しい。為替自由化、年金基金やオイル・マネーの運用、金融ビッグバン、ヘッジファンドの隆盛、新興市場の興隆など、さまざまな要因が働いている。経済のグローバル化の中で、好き嫌いにかかわらず、日本もこうした大きな流れの中に投げ込まれている。

 1980年代には、東京は世界の金融市場の3極のひとつとされていたが、バブルがはじけた後の日本の金融機関は元気がない。巨額な金融資産を抱える国でありながら、高度な金融技術を駆使した欧米の金融機関に体よくやられているのではないかという話も聞く。われわれの金融資産が必要以上に目減りしているとしたら大変なことだ。政府が国立大学に金融工学の講座や専攻を設けた背景にはこうした事情も働いているらしい。

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 ところで、金融工学には、忘れることのできない重大な事件がある。LTCM(Long Term Capital Management)というヘッジファンドの破綻である。この事件は、アメリカに起こった多くの不祥事の一例のように理解されがちである。しかし、これはエンロンやワールドコムのとはまったく質のことなる事件である。この事件の主役たちは、強欲によって動き、市場や社会を欺こうとしたのではない。金融工学という新しい学問の力を信じ、市場の歪みを正す裁定者として働くことに意義を見つけた人たちだった。

 グループの中心人物をメリウェザーという。ソロモン・ブラザーズに裁定取引を専門とする部門を設立して実績をあげた人物だった。特筆すべきは、パートナーにマートンとショールズという二人の(将来の)ノーベル賞受賞者が加わっていたことだった。LTCMは、金融工学の精華を生かし、市場のあらゆる場面で裁定取引を行なうことを戦略としていた。そして、それを可能にするだけの強力な頭脳を集めていた。

 LTCMは、1994年2月から運用を開始した。当初の運用資金12億5千万ドルから出発したこの会社は急成長し、一時は1300億ドルの資金をもち、連邦政府の年間予算に匹敵する元本規模のデリバティブ・ポートフォリオを築いていた。しかし、成功は長続きしなかった。1998年、2ヶ月あまりの苦闘ののち、この会社はあっさり破綻してしまった。

 1929年以降の世界大不況によって20世紀の経済学は大きな影響を受けた。ケインズ経済学の成立をこの不況と無関係に考えることはできない。おなじように、この事件は、金融工学の今後に大きな影響を及ぼし続けるであろう。

 この事件を報告する本が2冊でている。ニコラス・ダンバーによる『LTCM伝説』(東洋経済新報社、2001年)とロジャー・ローウェンスタインによる『天才たちの誤算』(日本経済新聞社、2001年)である。原著はともに2000年に出版されているが、内容にはかなりの差がある。

 『LTCM伝説』は、事件の主役たちがLTCMに参加するまでの話が中心である。LTCMがなぜ破綻したのか、実際にどのような取引をしていたのか、二人の経済学者たちの役割はじっさいにはどうだったのか。こうしたことはあまり分からない。しかし、金融工学の旗手たちがこの学問を作り挙げていく過程に興味があるなら、こちらの方が面白いかもしれない。

 『天才たちの誤算』には、LTCMの設立から、成功、破綻にいたる経緯が、だれがどう行動したというレベルで詳しく書き込まれている。ひとつの金融会社の経緯がこのように詳しく明らかにされるということ自体が驚きである。主役たちの二人(途中から協力を拒否された)と破綻後に作成された内部資料、それに取引相手であったウォール街の銀行関係者たちへのインタビューからこの本は構成されたという。裁定取引という原理的にはリスクのない取引を経営の根幹におきながら、その目覚しい成功ゆえに、過大なレバリッジにのめりこんでいく過程が詳しく書き込まれている。

 性格は異なるが、2著ともに推理小説を読むような面白さと臨場感がある。

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 なぜ、LTCMは破綻したのだろうか。わたしは、じつは、これは金融工学の原理にかかわる問題だと考えている。

 ブラック=ショールズ式を典型とするように、金融工学は、株価が正規分布にしたがって変動すると仮定している。大まかにはこれでよい。しかし、まれにしか観察されない大きな変動に関して、正規分布という仮定は事態を大きくゆがめている。ふつう株価は1日に1パーセント程度しか変動しない。一日の変動の標準偏差をσとするとき、5σという変動は、正規分布なら1万年に一度しか起こらない。ところが実際には、この程度の変動は数年に一度起こっている。厚い裾野の問題である。こういう変動を無視するとどうなるか。そのひとつの帰結がLTCMの破綻である。

 破綻の理由は、こればかりではない。金融工学は、ふつう独立した市場を対象としている。しかし、これらはときにすべてが強く関連して動く。金融工学は、また自分の行動が市場に影響しない「小さな取引者」という仮定を置いている。こうした仮定が覆されて、学問的には起こるはずのないことがおきたのである。

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