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「エコノミストの読書日記」1

塩沢由典(しおざわ・よしのり)

 本屋さんに入ると、つい長居をしてしまう。30分だけと思って入って、2時間になんていうこともしばしば。かつては、半分中毒のようなもので、一週間に数時間は本屋さんの中で暮らしていた。最近は、なかなか時間がとれず、本屋さんにはなるべく入らないように努力している。それでも平均して週2時間は本屋さんの店頭で時間をつぶしているだろう。

 そういう訳で、もうずいぶん長い間、本屋さんを定点観測してきたことになる。その中でふたつばかり感慨深いことがある。

 まずはきわめて個人的な感慨。わたしは若いころ数学に志し、30歳近くなって経済学に転向した。その学問領域の二つともが、本屋さんで観測するかぎり、衰退ぎみなのだ。書店の規模が大型化してきており、置かれている本の絶対点数では減っているとは思わないのだが、少なくとも相対的比重の低下は、数学・経済学ともに著しい。数学はコンピュータ関係の指南書に、経済学は近年隆盛を極める経営学に棚を奪われ、全体が大型化しているなか、数学の棚も経済学の棚も、ほとんど増えていない。売れ筋を置く本屋では、存在感が明確に低下している。

 もうひとつ気に掛かるのは、「精神世界」といういう書籍コーナーだ。30年前には、すくなくともこういう分類項目がなかったと思うし、あっても出版点数・販売部数ともに目立つほどのものではなかった。しかし、大型店舗では、いまや「精神世界」は、数学や経済学の倍以上は面積を取る一大領域である。

 「精神世界」の大部分は、オカルトである。常識や通常の科学の知識では測りしれない知恵というものがありうることを否定しないが、「精神世界」に溢れているのは、擬似科学的な因果の説明だ。オカルトがオカルトとして自己主張するのではなく、科学の装いを借りるところが現代のオカルティズムの特長だろうか。

 それはともかく、なぜひとはこのように「精神世界」に関心をもつのであろうか。「精神世界」のキーワードのひとつは「癒し」「ヒーリング」である。こういうキーワードが共感を呼ぶのは、ひとびとの心の中に「こころが病んでいる、癒されたい」という気持ちが意識的・無意識的に広がっているからであろう。

 社会科学は、こうした状況にどう応えているのだろうか。医学はどうだろうか。

 残念ながら、現代人のこころの問題に社会科学や医学が有効に応えられているとは思えない。むしろ、これらの学問が無力だからこそ「精神世界」が隆盛しているのではないだろうか。

 こんなことを考えていたところ、偶然入った小さな本屋さんで滝川一廣『「こころ」はだれが壊すのか』聞き手・編:佐藤幹夫、洋泉社、2003年2月)という本を見つけた。「精神世界」の問題に応えるものではないが、社会科学を大いに刺激する一冊だった。

 著者は、長く臨床に携わってきた精神科医で、現在、愛知教育大学障害児教室および障害児治療センター教授という方。聞き手は、21年間も養護学校教諭を勤めたフリーのライターである。

 児童虐待・不登校・少年犯罪などについて淡々と著者の考えを語ったものなのだが、この本には社会科学が学ぶべき多くの示唆がある。感激して『「こころ」はどこで壊れるか』(滝川一廣著、聞き手・編:佐藤幹夫、洋泉社、2001年4月)も買って読んだ。

 こころの健康や病いについての滝川の考え方はいろいろな意味で示唆に富むものだが、児童虐待や少年犯罪についての滝川の視角は、完全に社会科学的なものだ。

 近年、児童虐待が増えているという印象がある。普通に新聞やテレビを見ていれば、こう思うのは当然だが、事実はどうなのか。滝川は、まず、現代社会が問題行動を精神医学化する傾向があると指摘する。いわれて見れば、未成年者の凶悪事件では、かならず精神医学的な解説が発表される。こころが病んでいるから、犯罪を犯すという筋立てはきわめて分かりやすく説得力がある。しかし、そこに落とし穴がある。嬰児殺しなどの数値を引きながら、滝川は児童虐待はむしろ減少しているのではない考える。それにもかかわらず、いま児童虐待が問題になっているのは、むしろわれわれの事態の捉え方が変わったからなのである。「子育ての水準が低下してアビューズが次々と起きる「深刻な社会」になったのではなく、子育ての水準が高くなったためにアビューズが「深刻な問題」として焙(あぶ)りだされる社会になった」。これが滝川の現代社会に下す診断である。

 このほか、「ADSH(注意欠陥多動性障害)」「少年の凶悪犯罪」「触法精神障害者」などについても、滝川はわれわれの無意識の捉え方がいかに歪んだ常識を作りだしているか、具体的な事例に即して語っている。異常な方向への社会の変化と考えられるものが、じつはわれわれのものの見方の歪みによるものだとしたら、これこそ社会科学が問題にすべきことのように思える。

 滝川の2冊に味をしめて、もう一冊、矢幡洋『立ち直るための心理療法』(筑摩書房、2002年6月)も読んでみた。これは「トラウマ理論をぶっとばせ」という勇ましい本なのですが、17歳のとき以来、自分自身が「心の病気」と長年付き合わざるをえなかったカウンセラーが書いたものだけあって、きわめて実践的だ。いつくもの療法の体験の紹介もあり、医者への掛かり方のアドヴァイスもあり、さらにはここまで書くのと思わず泣けてしまう「セルフ・ヘルプ・ブック」まである。

 二つの本に共通するものは、特定病因論あるいは疾病モデルに対する懐疑である。滝川は精神失調は「なにかある「原因」に還元して説明することは困難」だと指摘しているし、矢幡はより積極的にこころの病に疾病モデル=因果関係を持ち出すことは適切でないと指摘している。

 矢幡はこころの病はむしろ生活習慣病に例えたほうがよいとしている。経済という複雑なものも、特定の原因や因果関係で捉えないほうがよいであろう。不景気を英語ではdepressionという。精神医学では、depressionは欝状態をいう。ことばの遊びだが、現在を経済の欝状態と考え、治療の現場での取り組みを参考にしたら、経済のdepressionにどう対応すべきかについても、新しい考え方が出てくるかもしれない。たとえば、経済にも身体がもつと同じような自然治癒力があるとしたら、そうした治癒力を強めるという政策がありそうである。

(大阪市立大学大学院創造都市研究科長)


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