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卒業後を考えて勉強計画を立てよう

                    創造都市研究科 塩沢由典

『Un Roseau 総合教育科目ガイドブック』第6号、大阪市立大学大学教育研究センター、2005年3月、pp.9-14。

キャリア・プランを考えていますか

 皆さんは、どんな人生設計(ライフ・プラン)をもっていますか。皆さんは、まだ若く、いろいろな可能性があります。どういう人生を送るか、大いに悩んでください。自分の将来を決めるのですから、それだけの価値があります。
 人生設計には、いろいろな要素があります。どんな恋人を見つけるか、どんな人と結婚するか。これは重要ですね。どんな仕事をするか、したいか。これも、重要な設計の一部です。そのとき、問題になるのがキャリア・プランです。
塩沢写真  キャリア・プランは、どんな仕事について、どう能力を付けて、どんな仕事をしたいかという計画です。キャリア・プランというと、ある会社に入って、その会社での昇進を考える人が大部分ですが、現在では、生涯ひとつの会社という終身雇用制は崩れつつあります。経験をつんで能力を付けて、やりたい仕事のできる会社に転職するいうことも珍しいことではなくなりました。
 このような時代には、会社への帰属意識や忠誠心よりも、そのひとの職業能力が問われます。大学で勉強するのも、こうした能力を獲得する基礎を身に付けるためといってよいでしょう。
 といっても、大学で学ぶことだけで、将来の職業能力の基礎ができるわけではありません。職業生活に着いて数年の経験を積むと、いろいろ不足している知識や能力に気がつきます。現実の問題に日々ぶつかって、問題意識が鋭くなり、そうした問題について考える理論や枠組み、歴史や外国の経験などを知りたくなります。現在では、そうした人たちのために社会人大学院ができていて、平日夜と土曜日などで、高度な専門知識を身につけることができるようになりました。大阪市立大学の創造都市研究科もそうした社会人大学院のひとつです。2003年4月に開設され、この3月にようやく第一期生を世に送りだすことができました(2004年3月にひとり修了されています)。
 社会人大学院で学ぶ人は、近年、急速に増大しています。そういう大学院が増えてきているというのもひとつの理由ですが、より根本的には社会がそうした大学院での勉強を必要としているからです。


なぜ社会人大学院が求められているのか

 社会人大学院が求められている理由は、大きく二つに分けられます。まず、世界共通の事情として、社会の変化が激しくなったことがあげられます。大学(学士課程)で受けた教育だけでは、一生を暮らせないという事情です。20世紀最大といれる経済学者にケインズがいます。ケインズは、経済政策は50年前の学説によって運営されていると苦情を言っています。20世紀のはじめにはそれでも済んでいたのです。しかし、IT革命をはじめ、どんどん世の中の変わっていく時代には、変化についていくだけでも大変です。必要とされる知識・教養も変わってきます。それで、社会生活につきながら、もう一度、大学/大学院で学びなおそうというわけです。
 こうしたことは、社会にとっても必要なことです。IT化の中で、フィンランドやスウェーデンの経済成果が高いのは、これらの国で生涯学習が盛んなことと無関係ではありません。
 社会人大学院が求められているもうひとつの理由は、日本固有のものです。これまで130年間、日本は欧米の後追いをして経済を発展させてきました。いわゆるキャッチアップです。日本は、この過程に驚くほどの成功をみせました。しかし、1990年以降、キャッチアップでは成り立たなくなりました。日本が経済的にトップに立ってしまったからです。さらには、アジアの諸国から今度は追い上げられる時代になりました。こうなると、社会に必要とされ、求められる人間像が変わってきます。
 従来は、欧米の制度や技術、動向をいち早くキャッチして紹介するひとが活躍できました。いわゆる「頭の速い秀才」です。こうしたひとたちは、飲み込みが速く、理解も早いので、キャッチアップには適しています。しかし、トップランナーの時代になって、自分たちで新しいものを創造しなければならない状況になると、活躍の機会が少なくなります。創造には、「頭の強い秀才」が必要だからです。

 

頭の速い秀才、強い秀才

 頭の速い秀才、強い秀才というのは、光通信技術で有名な西沢潤一先生の言葉です。西沢先生は、日本では秀才というと頭の速い秀才、理解が速く記憶力がよい人を考えてしまう、こういう人たちも重要だけれども、これからの日本に必要なのは、新しい時代を切り開いていく頭の強い秀才だ、というのです。
 頭の強い秀才の典型は、アインシュタインです。深く考えるから、けっして速くは理解できませんでした。実際、学生時代は、そう優秀な学生とはされていません。アインシュタインの数学の先生だったミンコフスキーは、「アインシュタインの数学のできないことはわたしが保証する」とまで言っています。卒業後の大学に残ったのではなくて、スイスの特許庁の役人として数年をすごしています。しかし、その間に、アインシュタインは19世紀の物理学の基礎を深く検討しなおして、1905年に今に残る大発見をします。相対性理論、光電効果の量子論的説明、ブラウン運動の3つです。奇跡の1905年と言われます。今年入学された方は、今年がちょうどその百周年だということを覚えておいてください。
 頭の強さが必要なのは、学者だけではありません。技術者では、青色ダイオードの中村修二さん、経営者では京セラを創業した稲盛和夫さんなども、頭の強い秀才です。稲盛さんは、決して学校秀才ではありません。旧制中学の入学試験に失敗していますし、大学も大阪大学入りたかったのですが合格せず、鹿児島大学に入っています。
 頭が速く秀才と強い秀才というのは、結構、分かれているようです。つまり、頭が速くて強い秀才はきわめて珍しいのです。数学者では、コンピュータの原理を考えたフォンノイマンが例外かもしれません。彼は、計算能力も記憶力も抜群で、さまざまなエピソードを残しています。電話帳をさっと見ただけで、その番号の総和を計算できたとか、ENIACいうコンピュータが開発されたとき、「私の次に計算のはやいやつができた」といったとか、いろいろあります。フォンノイマンの仕事は、ほんとに独創的なものはなく、みなどこから先行するアイデアがあったという人がいますが、数学基礎論・関数解析・量子力学・計算機理論・ゲームの理論と多数の領域で第一級の業績を残しており、普通の人よりも数段頭の強い秀才だったことはたしかです。
 一方、記憶力の弱いことで有名な数学者もいます。フォンノイマンの先生のヒルベルトは、そのひとりです。彼は、自分の発見した定理(「第90定理」という名前で知られている基礎的な定理)を忘れてしまい、弟子に指摘されて、こんな便利な定理が有ったのかのか、と簡単したといいます。
 頭の強さと速さは、あまり共存しにないというのは、大阪市立大学に入られた皆さんにとっては、重要なことかもしれません。みんなさんは頭の速さでは第一級とはいえないでしょう。もしそうなら、きっと別の大学に行っていますよね。でも、あなたは頭の強い秀才かもしれない。そういう可能性を自分でつぶそうとしていませんか。


時代の要請

 だいぶ脱線してしまいました。話の筋は、キャッチアップ期に必要とされる人材とトップランナー期に必要とされる人材とは、タイプが異なるということです。
 キャッチアップ期には、先例重視で、調整型の人材が求められました。なにを決めるにも、ボトムアップですんでいました。少数の頭の速い秀才と多数のすこし優秀な人材が必要でした。底上げと終身雇用・年功序列が重視されたのは、そのためです。それで社会は回っていました。トップランナー期に活躍する人材は異なります。そういう人は、まず先駆者でなければなりません。トップのリーダシップが求められます。真の能力が問われます。頭の強い秀才でなければ活躍できません。
 皆さんの多くは、これから大学で学ぶのですが、こうした時代の要請に応えられる人間になってほしいとおもいます。なにをどう学ぶか、よく考えてください。


なにを学びますか

 学習すべきことは、授業・講義の中にのみあるとは限りません。友達との付き合いから学ぶことができます。人生の先輩から学ぶこともできます。  皆さんは、尊敬する人を何人もっていますか。それは友人であってもよいし、親戚のだれかかもしれません。学校の先生かもしれません。この大学にも、立派な仕事をされた先生がたくさんいます。そういう人から、いろいろ学んでください。  尊敬する人がいないという人は、ぜひ、そういう人を見つけてください。作ってください。尊敬できるひとからでないと、人はよく学ぶことはできません。そういう人を見つけるために本を読むという手もあるのです。授業でそんな先生に出会えるかもしれません。もしひとりでもそういう人に出会えれば、その人の書いた本を芋蔓的に読むことができます。  いまの学生は、よく授業に出ています。40年前のわたしの学生時代には、大学は好きな授業だけに出て、単位は適当に集めていました。学生の気風はだいぶ違います。いまの学生の方が授業に対しては勤勉です。しかし、すべての授業・講義がおもしろく、わかりやすいものでなければならないというように考えていませんか。熱中できる授業は、いつの時代にもそう多くはないのです。そういう授業を見つけるため、出会うためにいろいろの授業があると考えてください。  もうひとつ重要なことは、授業の外での勉強です。これは自分が自分に課すものですから、テーマはなんでもよいのです。そういうテーマをひとつふたつもって、自分で勉強していくことは非常に大切なことです。そのようにして「自己教育力」が身に付きます。社会に出て一番重要なことは、この自己教育力です。  社会にでても、これだけの知識・能力で十分ということはありません。どんどん新しく身につけるべきことが出てきます。大学で学ぶのは、そうした自己教育を可能にする基礎能力を養成することです。自己教育の習慣を身につけられるのも大学教育の大きな可能性です。



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