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討論の習慣

塩沢由典

『国民文化』452号 1997年7月25日 2-3頁

 企業経営、学問研究、法案審議。あまり関係のないものを並べたと思われるかもしれない。しかし、日本におけるこの3つには、ひとつの共通した弱点があると思われる。それは討論の習慣を欠いていることである。

最初に企業経営からはじめよう。野村証券と第一勧業銀行の総会屋対策事件は記憶に新しい。この問題は、野村証券が二人の田渕氏を役員に返り咲かせようとしたのが起源とされている。

 たんに株主総会を無事に乗り切るために数億、数十億の金を総会屋に流したとは考えにくい。総会はひとつの象徴で、総会屋にすれば、他にも脅しの場はいくらでもあっただろう。だから、株主総会で1時間・2時間質問されることを恐れて、ゆすりに応じていたとは信じられない。だが、その点は措いておく。

 問題は、株主総会になんの発言も出ずに、「無事」終了することを良しとし、常識とする、会社側の考え方にある。株主総会は、年に一回、自社の経営の成果と方針を株主に知ってもらい、承認してもらう貴重な機会である。2時間・3時間の総会を恐れることはない。十分な討論をする場とするよう心掛けるべきであろう。質問ひとつ出ず、すべて「意義なし」で終わってしまったら、総会は総会として機能していないことになる。

株主総会を「無事に乗り切る」という発想は、会議を異論なしに進行させようとする考えに通じている。異質なものを認めず、反対意見との突き合わせを好まない。討論からよりよい知見を得ようとする態度が欠如している。このことが、まわり回って、現在の日本企業の経営の危機を生み出している。その端的な現れが、株主総会であり、取締役会である。多くの会社では、取締役会は既定方針の承認機関であり、会社業務の取締りの役目を負うことができていない。

事前に根回しをし、会議では異論なしに案を通す。しっかり議論せず、個人的な貸し借りでものごとをきめていく。そんなところからは、株主すら説得できる経営者も、経営方針も生まれない。高度成長期なら、それでも良かった。将来を見通すことは、比較的簡単だった。みんなで渡れば怖くなかった。しかし、これからの企業経営は、それですむであろうか。異論を突き合わせ、闘わせて、その上で決断する。こうした気風のないところは、今後しだいに淘汰されていくであろう。

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学問研究においても、日本では討論の習慣が根付いているとはいえない。学会報告には討論者が指名されることが多い。しかし、直截に問題点が指摘されることは珍しい。大部分は、いいかげんな賛辞といくらかの批判というパタンである。学問の進歩が真摯な討論から出てくるという自覚が、報告者にも討論者にも、またそれを聞いている聴衆にも、希薄である。

自然科学の分野では、最近は、日本からもかなり独創的な研究が出てきている。しかし、わたしの専門とする経済学の方面では、欧米で流行の話題を追いかける傾向がいまだに抜けていない。なにが大切な議題なのか。どう考えるべきなのか。こうした基本的な疑問を放棄して、技術的な問題の輸入がなされてきている。ここにも、相互の討論が欠けている。

 ものを対象とする自然科学の分野では、なにが真であるか、比較的客観的な判断が可能である。それに対し、人文・社会科学分野では、討論により客観性を確保する以外にない。そのことを自覚して、教科編成を考えるべきではないか。大学の共通教育を考える前提として、同僚の南齋征夫教授(機械工学)はこのような指摘をしている。同趣旨のことは、社会学者のスタニスラフ・アンドレスキーも言っている。社会に関する深い認識は、社会変革の提案と、それに対する保守派の反論からなる熾烈な討論の中から生まれた、というのである。

しっかりした討論の習慣を欠いているところでは、新しい問題意識を育てることはできない。そんな風土から独創的な研究が生まれないのは当然のことであろう。

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討論の習慣の欠けていると思われる第3の場は、政治である。とくに国会における法案審議が問題である。国会の審議過程については、いろいろな指摘がされている。議員立法が少ない、審議が実質的でない、議員相互の討論がない、などなど。こんどの国会では、議員立法が少し増え、党議拘束のない法案もあり、いくらか改善の兆しがあるようだが、脳死関連法の討議にも見られるように、実質的な討論が十分なされたと言えないまま、採決に持ち込まれてしまった。

 元国会議員のもらう勲章などの授章理由を見ると、しばしば「議案審議の重責を担う」とある。しかし、国会議員たちは本当に議案審議を自らの最重要な責務と考えているのだろうか。大臣になりたいために運動しているだけではないだろうか。

 これには、もちろん、われわれ国民の態度の問題もある。法案審議への貢献によってではなく、大臣や次官になったという、議員の職務とは直接関係ないことで議員の評価をしているからである。新聞やテレビなどでは、大臣経験者には、現職の議員であっても、元○○大臣、前○○大臣といった呼び方をしている。議員を議員以外の肩書で呼ぶのは、当を失したことである。このような考えが常識にならないところに、日本における国会軽視がある。

日本の政治に対する批判は数多い。もっともなものが多いが、いざ改善するとなると、具体的な提案はすくない。わたしは、国会の審議をもっと面白いものにすることを提案したい。議員は法案審議に力を入れる。国民はその過程に関心を払う。このような習慣ができれば、日本の政治もだいぶ良くなるのではないだろうか。

審議を面白くするためには、結果が最初から決まっていてはならない。党議拘束はなるべく外すべきであろう。議案を上程する段階で、すでに結果が決まっているのでは、だれも審議に真剣になれない。第2は、議案の修正をもっと行うべきであろう。政府原案がそのまま法律になるのなら、議会は何のためにあるのか、その存在意義を問われる。第3は、委員会討論をもっと活発化すること。そのために、委員長が一々指名しなければ、質問への答弁もできないような間延びした委員会運営をやめる必要がある。

ある議員の説明によると、議員が大臣になりたいのは、やはり腕を振るいたいからだという。現状では、議員は議員として腕の振るう場所をもっていないらしい。それでは、大臣病の議員が続出するのも仕方がない。せっかく優秀な人材を選び出しているのだから、議員には議会で活躍してもらわなければならない。

小さなことだが、真剣な討論の習慣を作りだすのは難しい。それは、会社であれ、学界であれ、議会であれ、同じことだ。だが、その努力は、いつも、続けなければならない。日本の文化の質がそこで問われてもいよう。




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