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松尾匡『ケインズの逆襲/ハイエクの慧眼 』の感想

PHP新書、2014年11月

☆ ここに掲載するのは、ある小さな勉強会で話題となった松尾匡氏の『ケインズの逆襲/ハイエクの慧眼 』を読んだ後の感想です。一度読んだだけの印象論ですので、内容の正確さにはいささか欠けるところがあることをご了承ください。これは書評ではなく、ブログ記事か会話のようなものとお考えください。
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批評者  塩沢由典 2015.1.24現在  .

Tさん推薦の『ケインズの逆襲/ハイエクの慧眼』は読み終えました。たしかにTさんのいうとおり、いま経済学でいろいろ問題になっている議題を総覧するには、なかなか良く書けていると思いました。わたしが追いかけていない経済学の流れも、かなり本格的に追っています。

この本の中心的主張は、「リスク、責任、決定の一致が必要だ」と「予想は大事だ」の2命題です。このうち、最初の命題については、たしかにいろいろ考えさせる点があります。大いに勉強になりました。大きな政府・小さな政府に対する第三の軸の立て方としてもおもしろいものです。その意味で、この本を読む機会を作ってくれたTさんに感謝します。

ただ、もちろん、全面的に賛成というわけにはいきません。2つの命題のそれぞれに問題があります。

第一命題については、「リスク、責任、決定の一致が必要だ」としても、それが出来ない場合をどうするか、がほとんど考察されていないとおもわれました。たとえば、わかりやすく現在の日本の経済政策について考えてみましょう。

アベノミクスを例にとると、このリスクはなんでしょう。不景気で失業が多いとか(いまは、逆転傾向も見られますが)、非正規・劣悪労働とかを解消するために、黒田方式の量的緩和を猛烈に進めるとき、ひとつのリスクはインフレ・ターゲットが成功しそうになってオーバシュートして、最悪の場合、ハイパーインフレーションになり、日本経済がめちゃめちゃになるというシナリオです。

著者の松尾さんは、リフレ政策でもハイパーインフレは起こらないといっていますが、問題はそういうことの是非ではなく、リスクと責任の一致、さらにはかれが補足的に言っている「情報の一番集まる人に決定を任せる」という原則が、この場合、どうなるかです。

リスクを負うのは日本人(日本に住んでいる人全体)ですが、インフレ政策・量的緩和の決定を個々の日本人が行なえるわけではありません。情報が一番集まるという意味では、日銀総裁の黒田さんがいちばん適しているでしょう。

責任については、だれが負えますか。安倍総理かも知れませんが、松尾さんのいうとおり責任を取らなければならないころには、安倍さんは総理大臣ではないでしょう。それに「辞める」ことでしか責任をとることはできません。

第一命題は、それが適用できる場合には、非常によい指導原理あるいは判定基準(すくなくともその一つ)になると思いますが、適用できない範囲・状況があまりにも多いのに、第一命題と第二命題を取り上げて、経済(あるいは社会)の問題を考えるときのすべての鍵がここにあるといわんばかりの書き方は、問題があります。かつての「革命が実現すれば」「生産手段の社会的所有が実現すれば」すべてが解決する、理想の社会が出現するといった類の志向パタンに近いものを感じます。

そう簡単に解決策はないけれども、なんとかよりよい方向に経済や社会を移行させていくにはどうしからよいか。これが複雑系経済学なり、進化経済学なりのとるべき考え方ではないか、とわたしは思っています。

第一命題を生かすには、「必要である」だけではなく、次のような諸問題を考える必要があります。

(1)第一命題が適用可能な領域はどういう場面か。
(2)適用しにくい場合に、どのような制度設計をすれば、適用可能な状態に近づけるのか。
(3)適用が困難な状況・場面ではどう考えるべきか。

ここには、平尾昌宏さんが『愛とか正義とか』(萌書房、2013)で提起された問題、つまり人間関係の大きさのちがいによって、問題を処理する原理とがおのずと異ならざるを得ないという指摘が
参考になります。愛の原理は、家族とか小集団では可能かもしれないが、一国とか世界とかの巨大な関係ネットワークを考える原理にはなりません。松尾さんの第一命題は、比較的小規模でかつ決定とその結果とが比較的明確な場合に限定されるのではないでしょうか。

第二命題は、もっと問題があります。と言っても、第一命題ほど重大なものだということではありません。実質的にはあまり大きな問題ではないが、松尾さんの議論の仕方には「もっと問題がある」という意味です。

一番の問題は、経済学において「予想」あいるは「期待」といい概念が、いまの経済学におけるほど重要視されていていいのか、ということです。アベノミクスでも、人々の期待インフレ率を上げ、実質期待利子率を引き下げるために、人々の「期待に働きかける」と言っています。わたしの基本的な考えは、ひとびとの期待に期待するような経済政策は避けるべきだということです。「期待する」の代わりに「働きかける」と言ってもおなじことです。

期待に注目する考え方は、もともとケインズにありました。『一般理論』の第12章は「長期期待の状態」と題されていて、有名な美人投票の例もこの章に出てきます。そのあと、ルーカスの「合理的期待形成」が出てきて、これがなぜか経済学の中心的主題になりました(本当は、もっと前の1960年代からJohn F. Muth が唱えた概念ですが、経済学の中心的主題にしたのはルーカスです。)。

1970年代半ばの「合理的期待形成革命」の結果、わたしより20歳ほど若い世代は、みなその革命に染まってしまい、理論的研究も(簡単にいえば、モデルの立て方も)すべて合理的期待形成仮説を取り入れたものになりました。動学的一般均衡理論とか、実物景気循環理論とか、ニューケインジアンとか、思想傾向は違っても、ほぼ一律に合理的期待形成に染まっています。このあたりは、松尾さんの本の第4章と第7章にかなり詳しい紹介があります。たとえば、菅内閣のときの内閣顧問で、カンノミクスの理論的背景といわれた小野善康さんも、この合理的期待形成仮説を取り入れてケインズ政策の有効性を「証明した」人として紹介されています。

しかし、わたしは期待を問題にせざるを得ない場面があるとしても(たとえば、金融資産バブル)、期待に期待するような政策は誤りだと思っています。むしろマクロ経済政策としては、期待の役割をおさえるような制度・政策が必要ではないでしょうか。

ところが松尾さんの第二命題では、「予想が大事だ」というだけで、それがどういう場合に無視できず、どういう場合には無視できるか、どういう場合に問題を引き起こし、どういう場合には,予想の働きをおさえることができるか、などについてなにも考えていないことです。

まあ、松尾さんたちの世代にとって、期待/予想という枠組みを相対化することは非常に困難なことなのでしょう。われわれがケインズ革命後のケインズ華やかなりしころ(の最終期)にいて、ケインズを相対化し批判することが非常に難しかったのと同じような状況だと思われます。

合理的期待を取り入れたモデルでも、新自由主義とは別の結論、たとえば「総需要政策が有効でありうる」といった命題を証明できるとしても、それはしょせん現在主流のマクロ経済学の思考の磁場の中で、ちょっとした方向の違いを取っているにすぎません。かれらのモデルは、基本的に一財モデル(経済で生産・消費されているのは一種類の財のみ)です。「一般均衡」の一般は、財がたくさんあって、その調整がどうなされているかではなく、今期・来期・来来期・ ・・・ における生産と消費がある利子率体系のもとで人々の消費行動と整合するかだけを見たものです。多数の財をモデル化したものもありますが、問題がなにも起こらないように前提をおいたものですから、基本の論理は一財モデルと同じです。

こうした「一財モデル」思考には、経済学として大きな問題があります。以下は、『今よりマシな日本社会をどう作れるか』(SURE、2013)にも書いたことと同じですが、簡単に繰り返しておきます。問題は、ケインズのころのような(あるいは高度成長時代のような)総需要政策はあまり有効でない、あるいはもっとはっきりいえば有害であるという状況に日本経済があるということでしょう。経済全体の需要構造と就業構造とを変えないかぎり、なかなか暮らしやすい経済は実現しません。

松尾さんの本でこれはわたしが気がついていなかったと思ったのは、いまかなりの人が「ケインズ政策は高度成長時代にのみ可能な政策だった」と考えているらしいことです。こうした考えがあることに、わたしはまったく気がつきませんでした。松尾さんは、第7章の中で、ケインズが総需要政策を考えたのは、成長が期待できるような時代ではなく,ケインズもそう考えていなかったと説明しています。このこと自体は正しいでしょうが、だから現在の日本経済にも総需要政策が有効だということにはなりません(すくなくとも、ケインズの権威を鵜呑みにする以外は)。

先にあげた小野善康さんは、菅内閣時代に、財政出動は乗数効果はないけれども、すくなくとも支出した額だけは雇用が増大するので有効だと唱えていました。「コンクリートから人へ」といいうのが基本政策であった民主党政権時代に、コンクリートでも人でも経済効果は同じだと主張していたわけです。典型的な一財モデル思考です。緊急経済対策がどうしてもコンクリート頼みになるという予算編成の性格を無視したか、知らなかったうえでの発言でしょう。こうした政策提言が民主党の基本政策に反しているという指摘が経済学者の間から出なかったことにも問題があります。マクロ経済学を専攻するほとんどの経済学者が一財モデルで考えているから、こうしたことが起こっています。

すこし本題からはずれました。もういちど予想/期待の問題には戻りましょう。松尾さんは、本の中で、(安倍政権の他の政策には反対ですが)現在のアベノミクスを本来は左派が唱えるべき・採用すべき政策を右派に取られてしまったと残念がっています。多くのリフレ派とは一線を隠しながら、リフレ政策/インフレターゲット政策を昔から考えていた立場としては、残念なのは分かります。しかし、リフレ政策/インフレターゲット政策は、期待を重視し、それを中核におくマクロ経済モデルに基づいた経済思考です。わたしは、こうした思考の仕方そのものに問題があり、現在主流のマクロ経済モデルとはまったくことなる経済理論を構築・提示する以外に、経済学者の現在の思考回路を変えることはできないとおもっています。いつもいうように、経済学(の現在のあり方)が我々の想像野を構成・限定しているからです。

アベノミクスとか量的緩和とか、げんざい日本・アメリカ合衆国・EUで試みられている政策の経済的なバックグランドは、New Consensus Macroeconmics といわれるものです。細かいことには立ち入れませんが、それはふつう産出量ギャップ、実質利子率、インフレ率、名目利子率などを結ぶ3本の方程式で考えられています。そのうち、現在の名目利子率は、テイラー・ルールにより決められてと考えますから、内生変数は産出量ギャップとインフレ率のふたつです。

その一つ、インフレ率が内生的に決まる式を書きますと、次のようなものです。

p(t) = b1 Yg(t) + b2 p(t-1) + b3 Et(p(t+1) ) + s2 (b2 + b3 = 1)  (1)

ここで p(t) は価格ではなく、t期のインフレ率、Yg(t)はt期の産出量ギャップ、Et( p(t+1)) はt期におけるt+1 期のインフレ率の期待値、s2 は確率的なランダム項です。

産出量ギャップを決める式もほぼ同様な形をしています。 (1)式のうち、Yg (t)の項を除くと、

p(t) = b2 p(t-1) + b3 Et(p(t+1)) + s2 (b2 + b3 = 1)       (1bis)

となります。確率項と期待値をとるオペレータを「無視する」と、これは

p(t) = b2 p(t-1) + b3 p(t+1) (1ters)

となります。これは、p(t) が p(t-1) と p(t+1) の重み b2, b3の平均をとっていることになります。これとおなじ構造が産出量ギャップにもあります。簡単に書くと

Yg(t) = a0 + a1 Yg( t-1) + a2 Yg( t+1) (2ters)

という関係です。確率項と、実質利子率が関係する部分と期待オペーレータは外されています。

ふつうこんな乱暴な議論はしませんが、産出量ギャップが0、名目利子率と期待インフレ率が等しければ、(1ters)、(2ters) はともに成り立ちます。

期待形成を重視する人たちは、みな均衡(かれらのいう時間系列に関する期待が整合的なという意味で動学的一般均衡)が成立するかどうか、つまり上の(1ters)、(2ters) を満たすような系列が存在するかどうかを確かめることに一生懸命です。しかし、ここにひとつのからくりがあります。 p(t+1)、Yg(t+1) は、t期には分からない、もっと正確にいうと、確定していない量です。ですから、Et(p(t+1))、Et(Yg(t+1)) などをとるのですが、その期待が実現する系列は (1ters)や(2ters) ですからとうぜんあります。

問題はそのことをもって(つまりそれらの系列の存在をもって)、そういう系列が実現する、じっさいに起こるとすり替えてしまうところにあります。そういう関係(New Consensus Macroの方程式)が現実の経済で実際に成立するかどうか、どういう状況で成立するかどうかを検討するのでなく、関係があると仮定し、それを満たす時系列が存在することを確認することで、現実にそういう関係が経済に存在するかのように自己暗示をかけています。

だいいち、産出量ギャップというのは、多くの仮定と推測の上に定められる仮想的な数量ですし(論者によってこの推計値は大きく異なります)、期待インフレ率、均衡実質利子率も、期待の推計値を操作すれば、どうとでもいうことができます。New Consensus Macroの連立方程式がフィットがいいとしても、そのことはモデルの作り方からしたがうものであり、現実がモデルに近いものであるとはいえません。むしろ、フィットがいいことは、期待値の推計などが方程式を満たすように決められていることを示すものでしょう。

期待は、けっきょくは過去・現在の傾向をなんらかに形で延長して形成されるものです。 (1ters)や(2ters) では、現在のインフレ率や産出量ギャップを、過去と未来の同じ変数(の実績値と期待値)で決めようというものです。期待形成の在り方をきちんと定式化すれば、過去のなんらかの平均(たぶんある種の指数平均)になるということでしょう。経済の時系列は、つよい系列相関をもつことで知られていますが、そういう性質をきちんと調べれば、モデルと実績とがフィットしていることから、モデルの正当性はいえないものであることが分かるはずです(ここは、まだきちんと論理的に詰めていませんから、推測という形で述べています。)。

松尾さんは、なぜかこうしたMacroモデルが気に入っていて、小谷清さん(p.116)、松井宗也さん(p.117)、大瀧雅之さん(p.118)のモデルなどを紹介し、合理的期待形成の下でも、総需要政策の有効性がしめせることを力説しています。これらは第4章の紹介ですが、第7章では上に紹介した小野善康さん、大瀧雅之さん、齋藤誠さんを(このころ[20世紀から21世紀への転換のころ]活躍した)日本の三大ケインズジアンとして紹介し、そのあと小野さんのモデルを引き合いに出して議論しています。

合理的期待形成ないし予想の重要性を認める立場からは、これは正しい紹介なのでしょうし、そうした論文をきちんと追いかけて紹介されていることは立派です。しかし、それはあくまでも、合理的期待形成に意義があると前提した上の話です。マクロの期待などに依存した政策に疑いをもつ立場からは、ほとんどトートロジカルな議論をやっているだけのように思われます。

以上が「予想が大事だ」という命題に関する経済理論/モデル形成の問題点ですが、「予想が大事だ」という松尾さんの第二命題のもうひとつの問題点は、予想(とくに期待実質利子率)がほんとうにそれほど重大な決定要因かということです。

いまのリフレ政策=インフレターゲット政策は、名目インフレ率が2%になり、名目利子率がマイナス2%になれば、流動性の罠から脱却できるという筋書きに沿っています。これはつまるところ、実質利子率が景気を左右する最大の要因であるという主張です。利子率が現在のほぼ0%から10%以上にもなれば、そのことから計画された投資計画を断念する企業が出てくることはわたしも認めます。しかし、現在のように利子率がほぼ0%であるので、量的緩和により実質利子率を下げれば景気が回復するていどに投資が増えるという考えにどのくらい妥当性があるでしょうか。

ケインズの『一般理論』とほぼ同時かすぐ後ぐらいの時代に、有名なオクスフォード経済調査というものがありました。これは、企業経営者等に質問して答えてもらうという調査方法の走りですが、その主要な結論は
(1) 企業はフルコスト原理に基づいて価格を設定している。
(2) (正常な状況において)企業経営者が投資決定を行なう際、利子率の高さ・低さはほとんど関係ない。
の2点でした。

1930年代にすでに利子率がすこしばかり動いても、それにより投資決定(したがって、投資量)が左右されることはないということです。消費についても、それで消費量が大幅に前倒しされるとは、ふつうの感覚では考えられません。現在のNew Consensus Macro はこの知見や常識をまったく無視して、実質利子率がわずか2%ほど低くできれば,景気は回復すると信じ込んでいます。いろいろ書いていますが、松尾さんも、この点ではまったく同じです。

これにはケインズにも、さらにいえばケインズに影響を及ぼしたヴィクセルにも「責任」があります。利子率を消費や投資の主要変数として理論構成したのが、ヴィクセルやケインズやハイエクだったからです。松尾さんの解説で、なるほどと思ったのは、ケインズの『一般理論』の正式名「雇用・利子および貨幣の一般理論」の前半(原語ではof 以下)の順番は、ケインズの考える主要な因果関係を表しているという注意です(p.209)。

一段落ぜんぶ引用しておきましょう。

ではケインズは総需要不足が起こる原因をどこにみていたか。『一般理論』の正式書名『雇用・利子および貨幣の一般理論』というのは、「雇用」の原因は「利子」だ、「利子」の原因は「貨幣だ」といいう順番で並べてあるものです。本の内容もだいたいその順番で原因を探求する方向に書かれています。だから、すべての原因は「貨幣」だというのがこの本の論旨です。

ケインズはそう考えていたかも知れません。しかし、わたしに言わせれば、ケインズのこの構想/認識はまちがっています。なぜなら、利子率は景気を左右するほど大きな力をもった変数ではないからです。もちろん、上に断ったように、加熱した景気を抑制する効果はかなりあるでしょう。しかし、ほとんど0に張り付いた利子率を(実質で)わずか2〜3%下げたからといって、投資計画は変わるものではなく、また消費者も消費行動を大きく変えることはないと思われます。マクロ経済という大きく複雑な対象を「利子率」という葦の穴からのみのぞくことを続けていると、葦の穴の視野のみがすべてを決めているかに見えてきているのではないかと思われます。

以上は、実質利子率の話ですが、実質利子率をすこし上下させることが景気対策にとってそれほど有効でないものであることに気づけば、期待利子率に働きかける政策がいかに頼りないかもわかるはずです。

「予想が大事だ」という命題が、期待利子率が景気を左右する重要な決定要因であるということを意味するなら、この命題はまったく誤りです。「期待」や「予想」は、マクロ経済にとって無意味ではないにしても、とうてい重要なものだとはいえません。ところが、New Consensus Macroやその近縁の学説のひとたちは「予想大事」といちずに思い込んでいます。こうした呪縛から逃れでることが大切なのに、松尾さん自身、「予想大事」の呪縛に縛られているばかりか、それを拡大・強化するようなことをしてしまっています。

この意味では、『ケインズの逆襲/ハイエクの慧眼』の二つの中心的主張である2命題には大きな問題があります。なお、本の題名は、中心的主張をあまりよく表したものではありませんが、ひょっとしてこれは松尾さんがつけたものではなく、出版社がこれくらいにしないと売れないと思ってつけたもの/提案したものかもしれません。ケインズもハイエクも、よく読んでいて、まちがった通説を正しています。この点は、この本のメリットでしょう。




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