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ギンタス(2011)から進化経済学を考える

『ゲーム理論による社会科学の統合』

成田悠輔・小川一仁・川越敏司訳、NTT出版、2011年7月
Herbert Gintis The Bounds of Reason: Game Theory and the Unification of the Behavioral Sciences
Hardcover: Princeton University Press 2009, Revised ed. 2014.
Paperback: Princeton University Press 2014.


批評者  塩沢由典 2015.1.25現在  .

本批評は、2012年3月17-18日、中央大学で開催された進化経済学会年大会における企画セッション「ボウルズ・ギンタスの進化社会科学とわれわれの立場」におけるわたしの趣旨説明を補足するものとして書かれた。セッションの表題にもかからず、ここで議論されているのはギンタスの日本語訳『ゲーム理論による社会科学の統合』(NTT出版、 2011 年 7 月)についての批評である。あまり時間のないなか、急いで書いたものなので、いろいろ思い違い・理解不足があると思われるが、本WEBページへの再録にあたっては、一切、修正を加えなかった。ファイルの形式もWORD文書のままとした。

ボールズに関しては、翻訳が進行中であったこと、かれの経済学の全体像について、わたし自身がまだ掴みきれなかったため、いっさい触れていない。
ボールズの『ミクロ経済学』に関する批評は、
  
ボールズ『制度と進化のミクロ経済学』批評
を見られたい。

以下に、趣旨説明と当日のパネリストおよび各氏の報告要旨の表題を参考までに転写しておく。報告要旨そのものは、各報告者の著作であるので掲載しない。なお、報告要旨を含む全体像は、
http://jafeeosaka.web.fc2.com/pdf/D1-1shiozawa2.pdf に公開されている。
2015年1月27日 記す。

進化経済学会2012年大会企画セッション

「ボウルズ・ギンタスの進化社会科学とわれわれの立場」

趣旨:ギンタスの『ゲーム理論による社会科学の統合』の日本語訳が2011年7月に出版され、ボウルズの『ミクロ経済学/行動と制度、進化』も近刊が予定されている。かつてのラディカル経済学の旗手たちによる、新しい社会科学への構想である。日本語訳出版を期に、かれらの提案をわれわれとしてどう受け止めるべきかを主題に賛成・批判を含む多様な視点から討論したい。

趣旨説明 塩沢由典
パネリスト報告
川越敏司/磯谷明徳/森岡真史/橋本敬/佐藤良一/瀧澤弘和
休憩
総合討論 パネリスト全員による
司会 植村博恭

報告要旨

川越敏司 ハーバート・ギンタス『ゲーム理論による社会科学の統合』 要旨と問題提起
磯谷明徳 S・ボウルズの進化的社会科学をめぐって
森岡真史 ギンタスの合理性概念について
橋本敬  (口頭報告のみ)
佐藤良一 <資本主義を理解する>へのこだわりから
瀧澤弘和 ハーバート・ギンタスの『ゲーム理論による社会科学の統合』について
塩沢由典 趣旨説明に代えて ギンタス(2011)から進化経済学を考える


批評者  塩沢由典 2012.3.17現在  .

ギンタス(2011)から進化経済学を考える

塩沢由典  

目次
(0)経済学の閉塞
(1)どう読むか
(2)可能性の限界
(3)「統合された行動科学」
(4)合理的主体あるいは主体の合理性
(5)確率論という思考枠組み
補論 グリムシャー『神経経済学入門』(2008)
(6)ゲーム理論とその周辺
(7)進化経済学の課題
参考文献

(0)経済学の閉塞

1970年代以降、アメリカ合衆国を中心として、「新しい古典派」(New Classical Economics)と呼ばれる経済学が誕生して以降、経済には波風はあったが、(日本を除いて)長期にわたり比較的順調に推移しているかに見えた。大いなる平穏(The Grand Moderation)なることばまで生まれた。しかし、サブプライム問題がリーマン・ショックの引き金を引くと、世界経済は2012年のこんにちに至るまで大いなる不安定性を露呈している。

小山友介(2011)が紹介しているようにイギリスのエリザベス女王は「なぜエコノミストの誰一人、信用危機を予測できなかったのですか」という率直な質問を発し、イギリスではそれに答えるべく、多くの学者が筆を取った(あるいはPCに向った)。リーマン・ショックは、ジョージ・ソロスが「Institute for New Economic Thinking」という研究機関を作らせるきっかけになった。「ケインズに戻れ」という標語は、長いあいだ弱い声でしかなかったが、リーマン・ショックの後には、もういちど強く叫ばれるようになった。2008年のショック直後に各国でとられた政策は、裁量的介入を忌避する新しい古典派のものでは、もちろんなかった。

2008年以前には所得格差が拡大することは当然視されていたが、2011年には「ウォールストリートを占拠せよ」という運動がおき、ニューヨークから世界の各地に広がった。11月2日には、アメリカの学生達たちの街頭デモもがあり、このときハーバード大の経済学10(Economics 10)の学生達も、Walkoutするとともに、担当教授のGreg Mankiw教授に公開質問状を送っている(Harvard students of Ec 10, 2011)。それは、経済学の(入門)教育が新古典派の狭い見解のものになっており、それ以外の意見の紹介や論評もないことを批判し、それでは経済をみる適切な眼を養うことができないと指摘している。

このような運動は、じつは2000年からフランスで、2001年にはイギリスでもすでに起こっている。この運動は、2003年にはHarvardにも飛び火している。2012年11月2日の公開質問状には前史があったのである(Post-Autistic Economics Network, Date Unknown)。

日本の進化経済学会は、こうした動きよりわずか3年前、1997年3月に発足している。参加者の多くは、立場は様々であったが、いずれも主流である新古典派経済学や新古典派マクロ(New Classical Macroeconomics)の現状に不満を覚えていた。2008年のリーマン・ショックは、日本におけるわれわれにも、新しい思考/新しい経済学を要請しているもといえよう。小山友介(2011)は、イギリスの科学誌 Nature に掲載された2つのエッセイを引いて行動経済学と経済物理学およびエージェント・ベース・モデルに言及している。「両者に共通しているのは、いわゆる合理的経済人の仮定に代表される「経済学のミクロ的基礎」を人間の実際の行動をベースにしたモデルに入れ替えることで、経済学の理論的枠組みを根本的なレベルで書き換えようとしている」ことだという(小山友介, 2011, pp.61-62.)

進化経済学会第16回大阪大会の企画セッション「ボウルズ・ギンタスの進化社会科学とわれわれの立場」は、昨年日本語か翻訳されたギンタスの近著と、提案者のわたし自身、翻訳者のひとりとして作業中のボウルズの『ミクロ経済学』(原著は2004年)を材料として、進化経済学の今後の課題を考えようとするものである。

周知のようにギンタスとボウルズは、ともにラジカル政治経済学(Radical Political Economy)を掲げて40年以上にわたり共闘してきたばかりでなく、現在も共著の労作をつぎつぎと発表している。その意味で、ギンタスとボウルズとは同志であろうが、ギンタス(2011)とボウルズ(2012未)とを読むかぎり、二人のあいだには大きな路線の差異が見て取れる。本旨趣旨説明では、ギンタス(2011)を中心的に取り上げ、それに批判的検討を加えることを太い線として、必要に応じてボウルズ(2012未)にも言及する。


(1)どう読むか

ギンタス(2011)とボウルズ(2012未)とが読むべき本であることは間違いない。扱われた主題について、それぞれの著者以上に適切な著者をいま指摘するのは難しい。とくにボウルズ(2012未)は、ある種の経済学の問題を考えたいとき(あるいは、経済の問題を理論的に分析したいとき)、大いに参考になる。ボウルズ(2012未)は、協調行動が取れずにたがいの不利が生じている場合に、どのような制度設計が必要となるといった問題について、 じつに豊富な事例を引いて具体的に分析している。同様の問題にぶつかったとき、われわれは、それをどう処理したらよいか、ゲーム理論という方法を用いて、どのていど問題に迫れるのか、判断を迫られる。こうしたとき、おおかたの見当をつけるのにボウルズ(2012未)以上に有用な書物は、青木昌彦(2001)の宣言的著作やボウルズとギンタスの共著(Bowles and Gitis, 2011)などを除いては、ほとんど見当たらない。それにもかかわらず、ギンタス(2011)は、大きな問題をはらんでいる。

日本の文科系学界の悪い癖として、欧米の評判のいい本を取り上げて研究し、その延長上にいくらか独自の貢献を付け加えようとするものがある。しかし、もしそのような態度でわれわれ(とくに若い研究者)がギンタス(2011)を読むとするとき、それはきわめて危険な本にまでなりかねない。したがって、どう読むかについては、じゅうぶんな注意が必要である。行動科学について、現在の概観を得ようとして読むなら、ギンタス(2011)は有用な地図を提供している。訳者の成田悠輔が示しているように(ギンタス, 2011, pp.409-410.「訳者あとがき」)、ギンタスはじつ多様な分野の学術雑誌に重要な論文を寄稿している。そのことからも明らかなように、ギンタスの視野はじつに広く、行動科学の諸分野に精通している。ギンタスによれば、4つの既成分野があり、考慮すべき5つの概念単位がある(これらについては、後に論ずる)。それらすべてについて、ギンタスは最新の研究成果に通暁しており、ギンタス(2011)一冊を展望論文として使うことができる 。

しかし、この本を論ずるとき、この本の問題点と危険性とに触れないわけにはいかない。ギンタスは、この本において「行動諸科学の統合」(Unification of the Behavioral Sciences)という科学研究プログラムを提起している。多くの兆候からみて、このプログラムは、わたしにはすでに破綻していると思われる。その点については、後に長く議論する。しかし、ギンタスの追究した試みは、多くの人にとって魅力的なものであり、若い研究者が虜になる可能性が高い。しかし、こうした方向には、どのような問題が存在し、どのように破綻する可能性が高いのか。それを知る書物としては、ギンタス(2011)は、きわめて示唆的である。

この書物の危険性は、ギンタス自身が言及している「金槌をもった男」(ギンタス, 2011, p.xiv)の寓話によって明確に示すことができる。マズローに引用されて有名になった寓話は、ふつう次のように紹介されている。道具として金槌しか持たない人間にとって、すべては釘に見える。道具として金槌しか持たないとき、人はすべての問題を釘(叩くべき対象)と見てしまうというのである。

ギンタス(2011)は、英語版序文において「ゲーム理論は素敵な金槌であり、実際打ち出の小槌である。しかし、それは社会科学者の道具箱に納まっている唯一の道具なのではない」(同)と断っている。しかし、日本語版序文でギンタス自身が指摘しているようにゲーム理論と合理的主体モデルを学習し、使えるようになるには「負担が大き過ぎる」(同、p. x)という問題がある。「素敵な金槌」に多大の投資をしたからには、それを使わなければならない。そのとき、「あらゆる問題が釘のように見える」(同, p. xiv)のは当然であろう。もちろん、このことにギンタスは責任はない。しかし、大学院レベルの教科書に近い書物を著すものの責任として、「金槌をもった男/女」にならないよう、周到な警告を楊井しなければならない。残念ながらギンタス(2011)の全編を読んでみても、そのような警告はほとんど見あたらない。そればかりか、通常は加えられるであろう合理的主体モデルとゲーム理論に対し、さまざまな機会に弁護論が繰り返される。

たとえば、第3章「ゲーム理論と人間行動」の導入部には次の文言が置かれている。

ゲーム理論は{あらゆる}[強調はギンタス自身]行動諸科学に利用可能な、統一的な分析的枠組みを育んでいる。このことは、学際間[ママ]の情報交換を促進し、やがては、現在は自然科学においてのみ享受されているような、行動科学内における有る程度の統一化を達成するかもしれない(第12章を参照)。さらに、行動ゲーム理論による予測は、系統立てられた手順によって検証可能なので、その結果は異なる実験環境の下でも再現可能である[文献引用省略]。このことによって、社会科学は真の科学になり得たのである。 (同, p.66)

このような文章に鼓舞されて、社会科学のあらゆる問題が釘に見えない方がおかしいというべきであろう。このあたりは、これは盟友であるといっても、ボウルズや青木昌彦の追及している方向とは、ずいぶんと違ったものと思われる。なぜなら、ボウルズや青木昌彦は、ゲーム理論を経済制度の発生や比較に用いるとしても、それが適切に利用できる範囲に自制していることが窺われるからである。

あらゆる問題には、それを扱うのに適した方法が存在する。この方法はひとつとは限らない。いかなる鋭利な道具であっても、任意の問題の分析に適すとはかぎらない。いかなる分析装置を用いるかによって、見えてくる問題が変わってくることはある。しかし、問題に応じて、適切な分析方法、適切な理論を用いなければならないのはいうまでもない。必要に応じて分析方法を選び取るという関係が逆転すると、ギンタス自身が批判している「金槌のみをもった人間は、すべての問題が釘に見える」あやまちに陥る可能性がつよい。方法が対象/問題の特性に優先してしまうのである。

ギンタス(2011)も、それを本格的に読む負担は、想像以上に大きい。多くの参照文献がついていることで、この負担はさらに大きくなっている。だからこそ、このような教科書を読むときの「読み方」が問題である。わたしは、この本を読もうとする学生も、研究者も、さいしょは流して読むことを勧める。行動ゲーム理論と認識的ゲーム理論が、どこまで発展したか。こうした情報をえる本としてこの本を利用しよう。そのあと、おおかたは忘れてしまってもかまわない。研究の展開・関心の深まりによって、ある問題にぶつかったとしよう。それを自分で解決したいとき、問題に適した方法が必要である。そのようなものはすぐに見つかるとは限らないが、多くの道具にアクセスするための地図を頭の中に用意しておくことは重要だ。その地図づくりの一貫として読むならば、ギンタス(2011)はよいガイドブックになってくれる。ただ、このガイドブックは、方法の説明にのみ偏している傾向がある。経済学の探求者であるならば、すでに言及した青木昌彦(2001)やボウルズ(2012未)を先に読むほうがよいだろう。そこでは、すくなくとも、経済に直接関係した問題が扱われているからである。


(2)可能性の限界

2008年以降の経済の現況と30年以上におよぶ経済学の閉塞とを考えるとき、われわれが考えなければならないのは、いかにしてブレーク・スルーを実現するかであろう。(日本の)進化経済学会には、進化経済学の現状にとどまっていればよいと主張する人はいないとわたしは信じている。

ブレークスルーという観点から、ギンタス(2011)とボウルズ(2012)を眺めたとき、なにが言えるだろうか。残念ながらギンタス(2011)とボウルズ(2012)のどちらにも、現在の不安定経済をどうすべきかについての処方箋はない。そうした問題を考えようとするとき、使えると思われる理論もない。その意味では、ギンタス(2011)の(経済学・人類学・社会学・心理学・政治科学の統合された基礎を提供するという)大見得にもかかわらず(ギンタス, 2011, p.331)、その体系の適用可能範囲はつつましいもので、経済の安定化や失業の解消といった問題に取り組むためには、ほとんどなんの手がかりもない。

ブレークスルーという観点でもうひとつ付け加えなければならないのは、ギンタスやボウルズの方法によりできることは、かなりのていどできてしまったと考えるべきだということである。たしかに、1970年代の前半の学問状況と比較して考えるとき、かれらの達成したものは仰ぎ見るように大きい。1980年以降の「大いなる平穏」の時代には、ケインズが取り組もうとしたようなことには、あまり緊急性がなかった。新しい古典派マクロ経済学の流れの中で仕事をすることも、それを批判することも、むなしいところがあった。そうした状況の時代に、制度の経済学を新しく構築するという挑戦は、きわめて魅力的であった。進化経済学にとっても、大きな刺激であった。ギンタスやボウルズや青木は、古い制度派経済学(Old Institutional Economics/Orthodox Institutional Economics)でも、新しい制度派経済学(New Institutional Economics)でもない、第3の制度経済学を作った。その経済学への貢献は、かぎりなく大きい。しかし、(当然のことに)この経済学とても、万能ではない。分析対象とすべき領域はかなり限定されている。たとえば、経済や金融の不安定性と取り組むのに、この経済学はあまり適していない。

もちろん、経済や金融の不安定性と取り組むのに、制度は無縁ではない。どのような制度を組み込めばよいか。その実装は、いかにしたら可能か。こうした問題は、もちろん制度の経済学の研究範囲である。しかし、経済の変動を扱うことは、現状の制度の経済学にとって、かなり手にあまる問題であることも確かである。

ギンタスは、この点につきどう考えるのだろうか。もちろん、ギンタス(2011)には直接的言及はない。だが、あるていど推定を許す発言はある。ギンタス(2011)の各章末には、英語版原文にはないギンタス自身の書評が載っている。ギンタスが各種の問題についてどう考えているか知るには、きわめておもしろいものが多い。たとえば、ピエール・プルデューとロイック・ヴァカンの『反省的社会学への招待』(『リフレクシヴ・ソシオロジーへの招待』水島和則訳、藤原書店、2007)への書評には、次の個所がある。ギンタスは、プルデューとヴァカンの本が「社会学という分野がなぜ今あるような奇妙な状況に陥ってしまったかを理解するのに役立」つといい、その原因を「核となる理論の欠如による」と指摘したあと、こういう。

経済学においては、以下のものがそのような核となる理論に含まれる。合理的主体モデル、ワルラス・アロー・デブューの一般均衡理論、金融理論における資本資産価格モデル、そして新古典派経済学の一般的方法論である。」(ギンタス, 2011, p.268)

これから推定するに、2008年以降の経済問題に取り組むには、ワルラス・アロー・デブューの一般均衡理論、金融理論における資本資産価格モデルなどを援用すればよいと考えていることになろう。サブプライム問題は、資本資産価格モデルに類似の仕組み債という金融工学理論の引き起こした金融危機である。このことはギンタスも認めるであろう。

金融工学は、対象としている債券の価値がそれぞれ独立に変動する(端的にいえば、デフォルトする)ことを前提としている。しかし、その価値は、土地価格の上昇と下落という共通の状況変化に条件付けられている。ローンの担保物件の価値が上昇しつつけるあいだはうまく回っていたが、担保価値が一斉に下落し始めるとサブプライム・ローンを組み込んでいたCDO(債務担保証券)はたちまち投売り状態となった。リーマン・ブラザーズの破綻は、その影響のごく一部分にすぎない。このことは、サブプライム危機が始まる前から、分かっていたことである。金融工学では、それをシステミック・リスクという。システミック・リスクは、金融工学ではなく、マクロ経済学の問題として扱わなければならない。しかし、1980年以降に発展したDSGE理論(動学的確率的一般均衡理論)では、すべては確率的ショックとして処理され、原理的には経済は安定しているはずのものである。経済学の「核となる理論」とは、なんともすばらしい理論である。

たとえ不満のある社会学と比べるためとはいえ、「合理的主体モデル、ワルラス・アロー・デブューの一般均衡理論、金融理論における資本資産価格モデル、そして新古典派経済学の一般的方法論」を理論の核として擁護してすまないところに、ギンタス(2011)の判断の明確な誤りがある。

市川惇信は、科学においても技術においても、日本が漸進的研究に偏っていることを憂えて『ブレークスルーのために』(市川惇信, 1996)という本を書いた。わずか156ページの小冊子である。ブレークスルーを数多く出現させているアメリカの研究機関をたずねて組織運営の秘密を探った形を取っているが、システム工学の研究者らしい彼自身の考察がすばらしい。市川惇信は、この中で「可能性の限界」を見極める重要性を強調している(塩沢由典, 2009に簡単に紹介した)。

市川によると、科学であれ、技術であれ、現状の体系にはつねにいくらかは発展の可能性が残されている。その「のびしろ」がどのくらいであるかを推測することが重要だという。技術であるなら、これは企業の命運を左右する判断にもなりかねない。のびしろがあまりないとき、まだ伸びると判断して、その延長上に研究開発を進めるなら、当面はなんとかなっても、中長期的には競争企業に画期的技術を開発され、関連市場をすべて失いかねない。逆にのびしろがじゅうぶんあるとき、新しい技術体系の開発にのめりこむなら、ブレークスルーができないうちに、競争企業が改良型の技術で市場を席捲するかもしれない。

既存の体系ののびしろは、どうやったら推測できるだろうか。それは既存の体系のもつ可能性の限界を知り、現状と比較することである。研究者は、この可能性の限界をつねに意識しなければならない。市川惇信(1996)は、こう警告している。

翻って、経済学について考えてみよう。ギンタス(2011)に欠けているのは、可能性の限界の意識であろう。経済学理論の核としてギンタスが挙げる合理的主体モデル、ワルラス・アロー・デブューの一般均衡理論、金融理論における資本資産価格モデル、新古典派経済学の一般的方法論には、もちろんまだそれぞれ幾分かののびしろがある。かれ自身のマニフェストとして掲げる「統合の枠組み」(ギンタス, 2011, p.332. これについては、次節で本格的に検討する)には、新古典派の経済学より、より大きなのびしろがある。しかし、のびしろのみに目を奪われて、みずからの方法・学問枠組みのもつ可能性の限界に無頓着では、学問の進路を考えようとするとき、大きな過ちの原因となるであろう。

新古典派の経済学の可能性の限界についていえば、ギンタスは、それがあまり大きくないことを知っているに違いない。彼の経歴からいって、それに気がついていないとは思えない。合理的主体モデルや一般均衡理論などを擁護しようとするのは、それがこんごも大きく発展するという判断よりは、政治的目的のために学問に対する評価を左右する人たちに対する反発によるものかもしれない。ギンタスは、社会学の現状に大きな不満をいだいているが、ギンタス(2011)に紹介されている書評を読むかぎり、かれが社会学者として可能性を見ているのはタルコット・パ−ソンズ一人である。ジェイムズ・コールマンに対しても、ブルデューに対するよりは好意的であるとしても、その学問展開についてはかなり手厳しい。しかし、そうした批評の中で明らかにされているのは、ギンタスの「左翼社会学者」(同, 268)や、「人民のための科学」を標榜するグループ(同, p.363)に対する嫌悪である。ギンタスは、ブルデューとヴァカンの『リフレクシブ・ソシオロジーへの招待』に対する書評の中で、パーソンズに対する批判は、「ほとんどの時間を社会運動に割いていた左翼社会学者」によるものだったと非難し、エドワード・ウィルソン『人間の本質について:改訂版』書評では、ウィルソンの社会生物学を「人種主義や右翼といった決まり文句で糾弾し」たのが、「人民のための科学」を標榜するグループだったと回顧している。

たしかに、このような傾向はあったかも知れないが、それが合理的主体モデルや一般均衡理論を擁護しなければならない理由になるだろうか。ひょっとすると、ギンタスは、合理的主体モデルや一般均衡理論に対する合理的な批判を知らないのであろうか。アメリカの経済学の現状から(あるいは社会学者とのながい消耗する対話から)、新古典派の体系に対する批判は、すべて政治的な意図か知的怠惰によるものと判断するようになったかもしれない。もしそうだとすれば、きわめて不幸なことだが、逆にいえば、ギンタスは、ラジカル政治経済学を唱えていた時代から、新古典派経済学の体系に対する合理的・理性的な批判をもっていなかったのではないだろうか。わたしは、新古典派経済学の体系は、その政治的・イデオロギー的含意とは別に、理論の体系として致命的欠陥をもっていると考え、(日本語の世界だけではあるが)そのことを多くの機会に指摘してきた(塩沢由典, 1983; 1990; 1997)。今回のギンタス(2011)の書評をかねた企画シンポジウムも、ギンタスの立場を政治的に批判したり、あるいは反対に無批判に賞賛するためではなく、ギンタスやボウルズの著作を知的刺激の材料として、げんざい閉塞している経済学の可能性を探るためである 。以下の行論で、ギンタスの示唆する統合された行動科学とそれを構成する諸概念に対してきびしい批判をするのは、その構想と諸理論の可能性の限界を見極めるためである。


(3)「統合された行動科学」

本シンポジウムは、進化経済学会の大会の一部としてある。そのようなものとして、ギンタスやボウルズの仕事が進化経済学にとって、あるいは経済学の閉塞を打破する道として、どんな意義をもつものが考えなければならない。ボウルズ(2012未)は、新古典派のミクロ経済学に代わるものを提供するという意図において壮大なものであり、すくなくとも欠かれた内容に関するかぎりたいへんな成功を収めている(欠落については、後にすこし触れる)。すくなくとも、その内容について、わたしは大きな異存はない。これに対し、ギンタス(2011)は、そこに提起されている構想が巨大なものであるだけに、多重な側面においてわたしには批判がある。

ギンタスが提示するような「統合行動科学」の枠組みによって研究を進めることが、行動科学にとってよいことであろうか。あるいは、行動科学に含まれるという経済学、人類学、社会学、心理学、政治学にとって目指すべき方向だろうか。ギンタスの表現を用いれば、これら諸科学はいわば「半封建」にある 。そのような自己閉鎖的・割拠主義的な態度を改め、統合された行動科学の基礎の上に(それらを理論的核として)、諸科学を発展させるべきである、というのがギンタス(2011)の最終的なメッセージと思われる。半封建的状況にあることが事実であるとしても、わたしはそれらを統一科学にまとめあげることが現時点で(現在を含む20〜30年後までに)可能だとは思わない。むしろ反対に、そのような統一された社会科学を目指すことは、諸科学がとりくんでいる固有の課題を歪曲化し、分析装置による課題の切り取りが起こる可能性が大である。ギンタス(2011)の構想に即していえば、すべてをゲーム理論により解釈するうごきが加速するであろう。現にギンタスは、この方向への圧力をあらゆる機会にかけている(ギンタス, 2011, p.216; p.299; p.374)。

統一された科学(Unified Science)あるいは科学の統一(Unification of Sciences)という目標は、さまざまな機会に表明されている。ウィーン学団の中では珍しい社会科学者だったオットー・ノイラートは、科学の統一を目指して、アメリカ合衆国に亡命したあとの主要な仕事としている。ウィーン学団の宣言文「科学的世界把握/ウィーン学団」も、統一科学を目指すことの表明だったとも読める(塩沢由典, 2002, §15.5)。ルイ・アルチュセールは、マルクスによって、社会科学の新しい大陸が切り開かれたという考えをもっていた。科学の新しい大陸という考えに、わたし自身おおいに感銘を受けたことを否定しない(塩沢由典, 2002, 第14章)。イマニュエル・ウォーラースタイン(1993)は、社会科学が現在、政治学・経済学・社会学・人類学に分かれているのは、19世紀のヨーロッパ中心主義の限界の反映であり、統一した社会科学が構想されなければならないと説いた。

化学や生物学が物理学の基礎の上にあるように、行動科学が生物学の基礎の上にあるし、あるべきだというギンタスの考え方(ギンタス, 2011, p.340)には、部分的に共鳴できるものがある。しかし、現時点で科学の統一を叫ぶことには問題がある。すでに言ったように、個別科学の固有の営みをゆがめる可能性が高いからである。諸科学は完全に孤立した存在ではありえない。しかし、現時点で、経済学、人類学、社会学、心理学、政治学などがそれぞれ独立の科学(学問)として存在しているのには、それなりの理由があるからである。それはウゥォーラーステインの言うように19世紀の遺産であり、いまはこのような区分の意義は薄れているかもしれない。大学という制度が、それぞれの学問を独立の専門科学(discipline)と認めてしまったがために、たんにそれらが再生産されているだけかもしれない。そうした側面があることは大いに認めるが、だから統一社会科学が可能であるとか、それを目指して研究計画を編成すべきだという考えには、(すくなくとも今は)わたしは懐疑的である。

諸科学に一定の「基礎づける」「基礎づけられる」という関係があることを認めるが、諸科学には固有の領域と問題とがあり、その研究に基礎となる学問の方法が役立つとは限らないからである。ギンタスがいうように、化学が物理学に「基礎づけられる」ということは、化学が物理学に還元されるという意味ではない。「化学は物理学に欠けている数多くの中心的概念を導入したし、化学に欠けている生物学の中心概念はもっと数多く存在する」(ギンタス, 2011, p.365)。固有の学問領域は、それが他の学問に基礎づけられるから成立するのではなく、対象とする現象に創発する特性があるからである(塩沢由典, 1997, 第5章)。統一科学あるいは諸科学の統一という呼びかけは、各科学が成立するに当たって浮上した現象と問題意識とを、他の学問の方法で解釈しなおす呼びかけでもある。それが可能なときにまで、そうすることを否定はしない。しかし、ギンタスのように、社会学では(かれがじゅうぶん使えるとおもう)ゲーム理論を取り入れていないのは、社会学者たちの怠慢のためであると思うのは、すでに歪曲への圧力でしかない。

ギンタスは、ブルデューとヴァカンの書評の中でこう言っている。「社会理論を文芸愛好家と擬似哲学者の個人的表現の集積だと考えるのが現代社会学の文化である。」(ギンタス, 2011, p.269) こういう苛立ちは分からぬではなし、根拠がないともいえない。しかし、学問の営みは、自由な市場におけると同様、そこへの参加者たちの自由な選択と相互評価の結果として進行している。社会学者や政治学者に対し、「あなたたちの学問が進歩しないのは、あなたたちがゲーム理論を用いないからだ」あるいはより強く「ゲーム理論を学び、使うための知的投資を怠っているからだ」という権利はギンタスにある。しかし、「いや、わたしたちの問題は、ゲーム理論で分析できるものばかりではなく、わたしたちにとってもっとも重要な問題はゲーム理論で分析するのには向いていないのだ」と抗弁する権利も政治学者や社会学者たちにはある。ギンタス(2011)に収められた十数本の書評は、ギンタスによるコマーシャル・コピーだとするならば、大目に見て取ることができる。だれしも自分の専門分野の重要性と普遍性とを主張したいものだ。しかし、ギンタス(2011)の本文の中にも、表現は薄められているにしても、おなじ含意をもつ主張にちりばめられているのはどうしたことだろう。これから新しく学問研究に取り組むような学生が読むべき本においては、宣伝よりも、自分達の主要な理論用具の「可能性の限界」をもっと意識させるべく努力すべきではないだろうか。

学者たちの自由な選択に任せても、ゲーム理論は、各種学問分野に浸透しつつある。倫理に関心をもつ哲学者の中には、ゲーム理論により倫理の発生と維持を説明しようとしている人がいる(内井惣七, 1996; 中山康雄, 2011)。諸科学の統一は、それほど宣伝しなくても、多くの研究者が自然発生的にもっている哲学である。それが可能なときに、実例を見せることには大きな意義があるし、そうした挑戦には敬意を表したい。しかし、自然発生的な観念を利用して学問を誤った方向に導こうとすることには、じゅうぶんな自戒が必要である。


(4)合理的主体あるいは主体の合理性 すでに触れたように、ギンタスは、行動科学に含まれるものとして、経済学・人類学・社会学・心理学・政治学があるといい、さらに動物行動と人間行動を扱う生物学がここに付け加えられるとしている(ギンタス, 2011, p.331)。ギンタスは、さらにこれらは「意思決定と戦略的相互作用に関する」4つのモデルを含んでいるという(同)。それがなにかは明示されないが、それぞれが「差読者の反対なしに学術雑誌に受け入れられるもの」であり、既成の4つの学問、心理学・社会学・生物学・経済学に根ざしているという(同)。重要なのは、これら4つのモデルは、「説明したことが違っているために異なっているだけでなく、{両立もできない}[強調はギンタス自身]」(同)ことである。「それぞれのモデルがもっている選択行動に関する主張は他のモデルによって否定されることがある。これはもちろん少なくとも4つのうちの3つが確かに間違っていることを意味する」(同)という。

4つのモデルがときに両立できないことから明らかになるのは、心理学・社会学・生物学・経済学の4つの学問が類似の行動モデルをもつものの、それぞれ説明しようとする事象と行動の条件が異なるということである。しかし、ギンタスはそうは考えない。4つの学問は、相互に整合的なモデル(たち)たちをもつべきだとギンタスは考えている。諸科学の統一を提唱する以上、こうした当為概念をもつことはとうぜんであるが、すでに(3)で述べたように、それが現時点(現在を含む20〜30年後までに)でどのような結果を招くかについてはわれわれは慎重でなければならない。しかし、ここではギンタスの統合の構想を検討しよう。

ギンタスは統合の枠組みとして5つの概念的単位があるという(ギンタス, 2011, p.332)。それらは、  (a)遺伝子と文化の共進化
 (b)規範に関する社会心理学理論
 (c)ゲーム理論
 (d)合理的主体のモデル
 (e)複雑系の理論
の5つである。

このうち、(a)(b)に関しては、それを十分に批評するだけの学識と意見をわたしはもちあわせていないが、(a)についてひとことだけ付言しておきたい。エドワード・ウィルソン『人間の本性について:改訂版』の書評(ギンタス, 2011, pp.361-368.)において述懐しているように、「遺伝子と文化の共進化」という主題は、ウィルソンの社会生物学による。ウイルソンの『社会生物学』(原著1975)は、経済学と社会学と生物的思想を統合しようとするギンタスにとって、ジョージ・ウィリアムズの『適応と自然選択』(原著1966)とならぶ強い衝撃と深い感銘を与えた。

そのような本に対し、理由なき攻撃が加えられたことにギンタスが心を痛めたことは上に触れた。人間行動と動物行動の間に橋を掛ける試みにわたしは反対ではないし、日本のサル学が人間に関する深い知見を生み出していることに感動している。人間は動物から進化したてきたのであるから、人間と動物とに連続する側面があり、それを明らかにすることで人間中心主義の視点から人間行動の研究を捉えなおすことには大きな意義がある。しかし、ギンタス(2011)を読んで、すこし不安になるのは、次の2点である。第1は、連続性に注意するならとうぜん考えてよいであろう合理性の限界に関する深い反省がないことである(この点は、すぐ後で詳細に論ずる)。第2は、人間行動の生み出したものではあるが、行動そのものとしては捉えられない「人工物」あるいはポパーが「世界3」と読んだものがあり、それらが経済社会の働きと構造を決める圧倒的といってよい存在となっているのだが(この点については、第×節で取り上げる)、ギンタス(2011)には、このことに対する自覚がないように思える。少なくとも、その重要性にふさわしい注意をギンタス(2011)は与えていない 。

(b)は、ギンタスのもっとも重要な貢献だから、この点に関して批評しないことは、この本の中心部分をはずしていることになるかもしれない。この点に照準をあわせた批評は、シンポジウムのパネリストや、他の論者の批評・批判を待ちたい。(b)に関するギンタスの貢献がいくら大きくすばらしいものであっても、本趣旨説明の主張・批判には影響しない。2つは独立であるよう、注意して議論してある。

本節では、(d)を中心的に取り上げて、それを(e)との関連から批評したい。(c)については、この構成部分である確率論とそれを用いる意思決定理論を中心に批評する。ゲーム理論は、ギンタスの指摘するだけでも、古典的ゲーム理論・行動ゲーム理論・認識的ゲーム理論・進化ゲーム理論と分岐してきており(ギンタス, 2011, p.332)、その全体について論評することはできない。しかし、確率論と期待効用理論をもちいることは、これらゲーム理論すべてにほぼ妥当する。その意味では、ゲーム理論の全体像のすくなくともかなり重要な部分に対する保留となると思われる。

ギンタス(2011)は、合理的主体モデルとゲーム理論を強く支持し、かれが考えるあらゆる批判に反駁している。その点につき、日本語版への序文には、特別な注意がなされている。序文全体6ページのうち、5ページがそれに宛てられている。しかし、じっさいに、ギンタスがおこなうのは、社会学者や心理学者からの批判に答えるものでしかない。経済学者あるいは経営学者の合理的選択モデルの批判には序文では触れていないし、本文中でも、おざなりにしか触れていない 。この点は後で議論するが、ギンタスが「合理的主体モデルとゲーム理論の立場をこれほど強く支持する理由」(ギンタス, 2011, p.xi)までが説明されている。それは「これらこそすべての行動科学にとって核となる道具であって、それなしには核となる理論は存在しえない」という(同) 。

これはきわめて強い主張である。この文は、2つ主張に分かれる。前半の合理的主体モデルとゲーム理論が「すべての行動科学にとって核となる道具である」という主張は、「すべて」という量化子の妥当性を問わないとすれば、まあ認められる。1870年代以降の新古典派経済学は、基本的に効用最大化モデルを核としていたし、1950年代以降の経済学ではゲーム理論は、ますます重要な理論用具となってきた。ギンタス(2011)が示すように、ゲーム理論そのものの発展も目を見張る。しかし、主張後半の合理的主体モデルとゲーム理論なしには「核となる理論は存在しえない」という主張はどうであろうか。

経済のある現象を説明しようとすると、ゲーム理論が「核となる理論」となっていることは確かである。ギンタスだけでなく、青木昌彦(200)やボウルズ(2012未)の制度分析は、ゲーム理論をはずしては成り立たない。しかし、経済学の例を引き続けるならば、新古典派以前の古典経済学(とくにリカードの経済学)は、合理的主体モデルにもゲーム理論にも依存する経済学ではない。社会学が「核となる理論」を欠くのとおなじく(ギンタス, 2011, p.267)、あるいは歴史家が「彼ら発見したことをどのように解釈すべきかに関するいかなる「理論」ももち合わせていない」のとおなじく(ギンタス, 2011, p.297)、古典経済学には核となる理論がないとギンタスは言いたいのだろう。

「理論」とはなにかを議論せざるをえないが、ギンタスが「理論」ということばでなにを意味するかについて、少なくともギンタス(2011)では明確な議論はない。ここでは常識的に「数学的検討を可能にする程度に定式化されたモデルに基づく考察」と考えておこう(わたしが、理論をこう定義しているというのではない)。この概念では、たしかに古典派には理論はないが、それは後に理論化されうる内容を含んでいることを排除しない。現にピエロ・スラッファ(1978)は、リカードを現代的に解釈したものといわれるが、この本はクラウディオ・ナポレオーニが指摘したように「主体」ということばを排除して成立しており(塩沢由典, 1990, p.85)、合理的主体モデルにもゲーム理論にも依存するものではない。

リカードを基礎としているからといって、現代の課題に答えていないともいえない。たとえば、塩沢由典(2012)は、スラッファに示唆を受けて古典経済学の枠組みでケインズの構想を再構築する試みを行っている。それは、金融資産市場の分析がじゅうぶんに展開できておらず、完成したものとはいえないが、リーマンショック以降、あるいは1992年以降の日本の長期停滞を念頭においたものとしては、(ギンタス, 2011)よりは時代の要請にはるかに応えるものと自負している。

ゲーム理論はともかく、ギンタスは合理的主体モデルになぜそれほどこだわるのであろうか。それは両者がほぼ同一の基盤・発想に基づくものだからであろう。合理的主体モデルがなりたたないなら、ゲーム理論もなりたたない。ギンタスは、こう考えているのかもしれない。たしかに、両者はほとんど同一の枠組みをもっている。ちがいは、合理的主体モデルが基本的には所与の条件のもとで選択を行なうのにたいし、ゲーム理論ではいわゆる戦略的行動を行っている。「戦略的行動」とは、この場合、自分以外の相手の行動を念頭において自己の行動を決定することをいう。典型的な合理的主体モデルは、自然を相手とするゲームであり、いわゆるゲーム理論は、戦略的行動をする相手のある合理的主体モデルということもできる。しかし、ゲーム理論については、第6節で検討することにして、合理的主体モデルのみを問題としたい。

合理的主体モデルに対して、ギンタスが考える批判は、すでに述べたように心理学者、社会学者、および行動経済学者からのものである。社会学者は、「人々がおよそ利己的でないことを強調する。だが、...合理的主体モデルはゲーム理論は利己性を仮定して」いないという(ギンタス, 2011, p.ix)。経済行動学者のカーネマンとトヴァースキーおよびその共同研究者たちは「人間が欠陥だらけの意思決定者であると断言する。そして、意思決定の研究は非合理の研究であると結論づけている。」(同, p.viii)。これは2つの異なる批判である。この2つに対し、ギンタス(2011)は、こう反応する。

まず、最初の社会学者からの批判に対しては、合理的主体モデルは利己的であると仮定していない。それは、非利己的な行動/意思決定をも対象にしうる。合理的主体モデルが前提とするのは、個人の選好の一貫性のみであるという(同, p.10-11.)。この点は正しい。本文の冒頭でも、「合理的個人とは、一貫した選好をもつ個人である」と定義している(同, p.3)。次の行動経済学者(および心理学者)たちの批判は、個人の選択(から推定される選好)には、一貫性がないというものである。これに対して、ギンタス(2011)は、「ほとんどの場合、より広い選択肢の空間をモデル化することで、選好の推移性を回復することができる」し、「非推移的選好をもっていても実質的にはほとんど費用がかからない」と反論する(同, p.viii.)。ここから見るかぎり、ギンタスの守りたいのは「選好の推移性」のようである。では、それはどの程度の妥当性をもつだろうか。

以下は、この点に関するわたし自身の意見である。わたしは心理学者でも、行動経済学者でも、まして社会学者でもない。しかし、わたしも、新古典派経済学の中心的理論(核といってもよい)にある合理的主体という概念について長い考察を行ってきた。合理的主体モデルに対比して、わたしが自分自身に課した問題は、「合理的であろう、一貫した推論をしようとする個人あるいは組織を想定しても、合理的主体モデルのように人間が行動しないのはなぜか」という問いであった(塩沢由典, 1990; 1997)。

わたしの結論は、状況と課題の複雑さに対比して、われわれ人間の推論能力はきわめて限定されている、というものである。このような考えは、もちろんわたし一人のものではない。H.A.サイモンやR.A.ハイナー、ブライアン・ロースビーがいる 。ギンタス(2011)には、ハイナーは本文中には文献参照に一回引かれているだけである。ロースピーには一切の言及がない。さすがにサイモンについては、本文4個所、参考文献で3項目が参照されているが、本文の2個所は文献への参照であり、実質的なものは2個所に限られている(ギンタス, 2011, p.4; p.347.)。いずれも合理的主体モデルあるいはギンタスがこの方が良いという表現によればBPCモデル(Briefs, Preferences, Constraints Model)にたいする批判の例として挙げられている。

ギンタスはサイモンの批判が「BPCモデルに対する批判の中で、最も説得力がある」(ギンタス, 2011, p.347.)というが、この批判の意味を真剣に検討したとは思えない。「情報処理には費用がかかり、人間は有限の情報処理能力しか持たないため、個人は{最大化行動}よりむしろ{満足化行動}をとる。そのため、人間は{限定合理的}とならざるを得ない。この見方を支持する多くの事実がある。」[強調はすべてギンタス](同)とギンタスは言う。そして「サイモンの研究が発する主要なメッセージは、BPCモデルを却下すべきだ、というものだ。[中略]これは誤っている。個人がルーティンに従って選択を行い、一貫した選好を持っているかぎりにおいて、個人を制約条件付きの目的関数を最大化するものとしてモデル化できるからである。」(ギンタス, 2011, p.348.)とギンタスは結論付ける。

一貫性のある推論ができないことが問題になっているのに、「一貫した選好を持っているかぎり」合理的主体モデルでモデル化できるから、合理的主体モデルは擁護されるというのらしいが、これは同義反復ではないだろうか。

どうやらギンタスは、推論と選好を分離できると考えているようだ。しかし、推論と選好と効用関数とは、ほとんど並行的なものだ。たとえば、かならず一定手数以下で終わる公開交番勝ち負けゲーム(たとえば将棋や囲碁)を考えてみよう。可能な盤面の数は有限個である。盤面は、どちらの手番であるかによって勝ち負けが変わるので、ある盤面というとき、どちらの手番であるかも同時に考えるとする。これを手番付き盤面という。以下では、手番つき盤面を簡単に盤面という。すべての盤面は、先手か後手が勝つと決まっている。これが有界公開交番勝ち負けゲームの著しい特徴である(この点の詳しい説明は、塩沢由典, 1990, 第8章をみよ。)。たとえば、ある盤面が先手必勝であるとしよう。これはどんな打ち方をしても先手が勝つという意味ではなく、後手がどんな手を打とうと、先手には自分が勝つようになる手が少なくとも一手存在するという意味である。同じようにすべての盤面は、それが先手必勝であるが、後手必勝であるかが決まっている。対局最初の盤面が先手必勝のとき、このゲームは先手必勝という。

このとき、次のように各盤面にゲームの値を定義しよう。いまある盤面が先手の手番であり、かつ先手必勝であるとき、盤面の値を1とし、後手必勝であるとき、0とする。ある盤面が後手の手番であって、後手必勝であるとき、盤面の値を0、先手必勝であるとき、1とする。このような値をすべての手番付き盤面に与えることができる。

さて、対局者は勝つことだけを目指しているとしよう。このとき、先手は、値1の盤面を値0の盤面より選好する。後手は、反対に、値0の盤面を値1の盤面より選好する。この選好は、まったく合理的なものであり、一貫したものである。ところで、もしゲームが先手必勝であるとするなら、先手は盤面のゲームの値を見ることにより、具体的に勝つことができる。まず、対局最初の盤面が先手必勝であるので、先手にはある手を打って、その結果が値1となるような手が存在する。もしそれがないとすれば、対局最初の盤面はじつは後手必勝である。そこで、先手は、結果が1となる任意の手を打つ。次は後手の番であり、どんな手を打つか、先手は関与できない。しかし、そこに生まれる盤面は、今度は先手の手番であり、かつ先手必勝である。そこで前と同じように、少なくともひつとつの手があって結果の値が1となるものが存在する。このように手を打つことを間違いなく進めていけば、先手はかならず一定手以下で勝つことができる。

これは(手番付き)盤面の選好がじっさいにゲームに勝つ方法を教えるという意味で、ゲームに勝つという推論の代わりを果たしていることを意味している。これは任意の有界公開交番勝ち負けゲームにおいて成立する。しかし、このことの意味を考えてみると、ギンタスの思いもかけない事態が出現する。将棋や囲碁が一定手番で勝負が付くかというと、実はそうではない。引き分けといった事態が存在するが、ゲームがきちんと定義されているとすれば、上の値の代わりに先手必勝の盤面を1、後手が負けない(つまり最悪でも引き分けに持ち込める)盤面を0とすれば、少なくとも先手にとっておなじことがいえる。ところで、将棋や囲碁は、じっさいには先手必勝であろうか。それとも、後手不敗であろうか。ゲームが完全に定義されているかぎり(この点には多少の疑問があるが)、理論的にはどちらかに決まっている。これが有界公開交番勝ち負けゲームの決定定理というもので、ノイマンとモルゲンシュテルン(2009)にも示されている。しかし、どんな名人や教え込んだコンピュータをもってしても、いまのところ(たぶん、今後20年以上も)そのような必勝法(あるいは不敗法)を現実に指す人あるいはプログラムは出現しそうにない。

盤面ゲームという世界をみたとき、盤面の集合に一貫した選好があるということと、一貫した推論をすることとはほぼ同値である。上で見たように、勝つという目的のために一貫した選好をもつことと、勝つための推論を行なこととは、一定以下の計算で相互に変換可能なのである。したがって、一貫性のある推論ができないのに、「一貫した選好を持っているかぎり」合理的主体モデルが擁護できるというのは、まったく矛盾した主張でしかない 。

一貫した推論が難しいことは、ちょっと複雑な課題を考えれば、すぐ分かる。実際に必要となる多くの課題状況において(たとえば、スケジューリングにおいて)、もし最適化を望むならば、コンピュータにも手に負えない問題(NP完全あるいはNP困難問題)となることが、計算量の理論あるいは計算複雑性の理論という数学領域において明らかにされている。そのような課題状況は、たとえば人がスーパーマーケットに行って買い物をしようとするときにも起こる。簡単な線型の効用関数を与えてさえ、予算内で効用を最適化するプログラムの計算量は品目数の増大とともに急速に爆発する(塩沢由典, 1990, 第8章)。個別の商品に効用を指定できたとしても、商品の組合せは指数関数的に増大し、それらのすべての効用和を計算して、比較することはできないのである 。

こうしたことを知ってか知らずか、ギンタスは日本語版序文において、「毎週の買い物のためにスーパーに出かけるときがその例だ。経済理論が成功した理由はこの点である。そのため、消費者の行動や労働市場の振舞を予測したい場合、企業や政府は心理学者ではなく、経済学者を雇うことになる。」(2011, p.ix)と指摘している。企業は経済学者を雇うかもしれないが、それは合理的主体モデルがうまく働くからではない。マーケッティングの専門家が、このようなモデルでヒット商品を見つけ出すことは金輪際ありえない。かれはまったく違った思考をとおして、新しいヒントを発見している。そのような事実を隠してしまうだけでも、合理的主体モデルは罪深いといわざるをえない。

ギンタスは、限定合理性の意味をまったく理解していない。最適化問題に代えてサイモンが満足原理を出したとき、それは問題が解けるように課題を変更したのだった。変更された問題が最適化の形を取ったことによって、合理的主体モデルが救済されるわけではない。なぜなら、ほとんどの実際的問題は、このように解ける問題に変換され、その解にしたがって意思決定されている。しかし、課題がどのように変更されるかについて、合理的主体モデルは、なんの示唆も与えない。ギンタス自身がまったく理解しなかったように、こういう問題が存在することさえ教えない。なぜなら、ギンタスの合理的主体モデルには、課題の複雑とそれを解く能力を比較するという問題意識自体が存在していないからだ 。 ギンタスが限定合理性の意味をほとんど理解しなかったのは、ほんとうはかなり変なことである 。なぜなら、ギンタスは、かれの構想する行動科学の基本的枠組みとして、(e)複雑系の理論を挙げているからである。ボウルズの盟友であり、現にサンタフェ研究所の外部教授である関係上、この項目を挙げることには驚きはない。しかし、複雑系の理論がじつは合理的主体モデルに対する根本的な批判を含意していることにギンタスは気付いていない。

複雑系の理論には、大きくわけて2つの柱がある。ひとつは、非線型力学系がカオスやフラクタルなどという複雑な現象を生起し、将来の予測にも一定の限界があることを教えるものである。カオスやフラクタルの出現は、世界を見る数学者の目を変えてしまった(塩沢由典, 1997b, 第2部)。進化経済学会にも非線形研究部会があり、活発な研究が行なわれている(成果の一例はAruka(2011)。これはAruka編となっているが、全編、(共著論文を含むものの)有賀の論文である。)。複雑系の理論のもう一つの柱は、上に強調した状況と課題の複雑さと、その帰結の問題である。わたしは1985年以来、この問題に取り組んできた(塩沢由典 1990; 1997; 1997b; 1998; 2004; 2006, 2006b, Shiozawa 2004)。

サンタフェ研究所は、どちらかというと第1の柱に力点があるが、この研究所の標的が「複雑適応系」にあるように、第2の柱がまったく無視されているわけではない。人間行動を適応/進化と捉える基底には、ハイナーのいうCDギャップがあることが前提だからである。

ギンタスは「人間社会が創発性をもつ複雑適応系であり、今のところ、またおそらく将来的にも基礎的な分析単位では十分に説明できない種類のものだからである。」(ギンタス、2011, p.333)と述べるていどで複雑系の理論について本格的な議論はしていない。Santa Fe流の複雑適応系への配慮はあるが、わたしが重視する「複雑さの問題」はすべて考慮の外にある。「複雑さの問題」は、行動と認識の進化と共進化、意思決定論やゲームの理論、合理的主体モデルのすべてに関連しているのだが(塩沢由典, 1990; 1997; 1998; 1999; 2004, Shiozawa, 2004)、ギンタスにはそれがマクロ社会の問題としてしか(つまりそれが人間の経済行動を規定するものとしては)見えていない。

以上の批判に対して、もっとも容易に想定されるギンタスの反論は、以上の議論が決定論的な枠組みの中でなされているからであり、確率の考えを導入する場合には、わたしの批判は当たらないというものであろう。現に第1章冒頭で「一貫した選好は無限の情報処理能力や完全知識を想定していないため、限定合理性さえもBPCモデルと整合的である」(ギンタス, 2011, p.4)と見当違いな弁護をしたあとで、注にはこう書いている。「限定合理的個人は、自然の状態についての適切なベイズ的事前分布の集合が与えられた場合完全な合理的個人と見なし得ることが実際に証明されている。」しかし、それがギンタスの見当違いであることは、次節(5)において議論する。


(5)確率論という思考枠組み

確率の概念は、合理的主体モデルにも、ゲームの理論にも重要である。合理的主体モデルをすこしでも具体的な状況に適用しようとすれば、無知や不確実性の問題に突き当たる(Loasby, 1976)。合理的主体モデルは、そのとき確率概念を導入して、期待効用を最大化するという定式を提出する。ゲームの理論では、純粋戦略のみの選択では、ゲームの解(たとえば、鞍点解やナッシュ均衡など)が存在しない場合がほとんどである。そこで一般に純粋戦略を確率的に組み合わせる混合戦略が問題にされる。

確率概念と確率論は、賭け事の分析から始まったことか分かるように、人間の行動にもともと縁が深いといえよう。したがって、適切な状況に限定するなら、確率論はきわめて有効な理論装置である。とくに、19世紀末期以降、確率論は物理学で有効な応用領域を開発し、量子力学や素粒子論(場の量子力学)などは、確率概念なしには成り立ちえない。また、数学におけるコルモゴロフ以来の確率論の発展には目を見張るものがある。しかし、だからといって、意思決定問題を確率概念によりすべてうまく処理できると考えることには大きな問題がある。

部分的には大いに有効に適用できても、そのすぐ周辺に、確率論では処理できない関係(システミック・リスク)が隠れている例については、すでに上で金融工学の事例を指摘した。しかし、このような指摘を待つまでもなく、経済学ではフランク・ナイト(1959)による古典的な議論がある。ケインズの『確率論』は文献参照されているが、ナイトがいっさい言及されていないということはなにを意味するだろうか。ケインズ『確率論』も、「確率評価の哲学的基礎については統一的な合意がない」(ギンタス, 2011, p.204)という文脈で引かれているだけである。これで行動科学の基礎についてじゅうぶん考えた(あるいは、行動科学に入門しようとする若い研究者をじゅうぶんな考察にみちびく)ものといえるだろうか。ケインズ『確率論』が成功作とはとうてい思えないが(塩沢由典・中村八束, 1985) 、すくなくともケインズが古典的な確率論では人間の推論と信念形成がうまく扱えると考えていなかった証拠ではある。

行動諸科学の統一という標語を掲げ、合理的主体モデルとゲーム理論をその5つの主要な概念単位の2つとする以上、期待効用最大化とゲーム理論において、確率概念を用いていることについて、それが有効となる状況、それを用いることが危険である(あるいは疑わしい)状況について、適切な言及があってしかるべきである。しかし、ギンタス(2011)には、そうした注意に当るものは、ほとんど見当たらない。逆に、確率概念により、あたかも効用最大化定式による合理的主体モデル(あるいはBPCモデル)が普遍的に正当化できるかに議論を展開している。

確率概念を用いた意思決定問題は、ギンタス(2011)では、最初に1.5「ベイズ的合理性と主観的事前分布」で現れる。客観的な確率分布を基礎にするかぎり、意思決定問題の分析に用いるには、ほとんど致命的というべき困難がある(事象集合とその上の確率分布を知ることがほとんど不可能である)。そのため、期待効用理論で用いられるのが主観確率であることを示す意味では、この導入はまちがっていはいない。しかし、期待値の定義(ギンタス, 2011, p.16)から、期待効用の原理をみちびくという展開は、2重の意味で問題がある。

ひとつは、期待効用そのものの概念に関するものである。期待効用は、その定義から明らかなように選択すべき基底の状態(純粋戦略)については任意の効用水準が設定できるものの、それら諸事象の確率的結合(混合戦略)については、結合に関する加法性が前提されている。この事実(加法性)は、より広い文脈で必要であることも知られている。ギンタス(2011)でいえば、それは定理1.4に当る。しかし、混合戦略の集合上の効用関数を考えるとき、それが結合に関し加法的である必要はまったくない。アレの逆説やプロスペクト理論は、この点に関係している 。ギンタス(2011)は、1.5節の直後にアレの逆説やプロスペクト理論について触れるものの、期待効用理論の妥当性に関しては「ひとたび適切なパラメータ...を選好関数に組み込んでやれば、上記の例が矛盾した結果をもたらさないことが明らかになっている」としている(ギンタス, 2011, p.34)。

もうひとつは、ギンタスの議論にちょくせつ関係する。ギンタスは、1.5節で、Savage(1954)の結果を紹介している。それは個人が諸事象の集合(「くじの集合」と表現されている。)に一貫した選好をもつかぎり、確率空間には確率関数pと状態集合には選好uが存在し、諸事象の間の選好関係は期待効用E(u, p)により表現されるという定理である(定理1.3, ギンタス, 2011, p.21)。この紹介は、第1章の他の個所ではほんど結果の紹介に終わっているのに対し、(証明はないものの)ほぼ3ページにわたって前提とされる公理などを詳細に紹介している点できわだっている。ギンタスは、この定理にいたく感心したらしく、ギンタス(2011)の本文以外でも、言及している。パーソンズの『社会的行為の構造』に関する書評の中で、「各個人が「信念」と解釈できる「事前分布」」をもっていると想定することが可能になった。」としてSavage(1954)を引用している(ギンタス, 2011, p.217)。しかし、定理のこの解釈は、妥当なものとはいえない。

サべッジ(Savage, 1954)がこのような定理に取り組んだ背景には、多くの意思決定状況において確率分布を知ることかできないという問題があった。そこで、アブラハム・ワルトなどは、確率を前提としない意思決定問題にも取り組んでいた。脚注×に触れたように、このワルトは、非負価格の存在問題がオーストリア(当時のオーストリー・ハンガリー帝国)で問題になった初期に、レマクとともに活躍したワルトである 。アブラハム・ワルトは、アメリカに移住したのち、確率論をもちいた意思決定問題に取り組んでいた。その代表的著作がWald(1950)である。しかし、ワルトは、この本の出版直後に飛行機事故で奥さんとともにエジプトでなくなった。Savage(1951)は、Wald(1950)に関するかなり辛口の書評を書いているが、校正段階で訃報が飛びこみ、この死去により、この方面の学問の進歩ははるかに遅くなったと書いている。これはかならずしも弔辞の上での賛辞ではなく、ワルトの死後、確率を前提としない不確実状況の意思決定論はほとんど消滅してしまった。

サべッジの定理は、確率論を前提にする意思決定論にどのていどの普遍性があるかどうかを検討するという問題意識のもとに得られた成果である。しかし、サビッジの定理がギンタス(2011)が理解するように、不確実性と危険にかかわるナイト以来の問題が個人の信念と解釈できるようになり、期待効用理論が人間の意思決定問題として普遍的な位置を獲得したとはとうていいえない。

サべッジの定理は、選好の一貫性が大前提であるが、人間が多くの事態において、このような一貫性(整合性)をもてるかどうかについては、前節で示したようにきわめて疑わしい。期待効用理論に基づく意思決定が妥当性をもつのは、個人の主観確率が比較的妥当性をもてる範囲に限定される。これはとうぜんの注意であるが、そのような注意がギンタス(2011)には見られない。ギンタス本人はともかく、このような行論は、ギンタス(2011)によって行動科学に本格的に入門しようとする後進たちを誤った展望をもたせてしまう。  酒井泰弘は、酒井泰弘(2010)第5章で「期待効用理論の有効性と限界」に触れ、サベッジにも言及しているが、その見出し項目の結論として「期待効用理論はナイト理論を越えるものとはいえない。」と明言している(酒井泰弘, 2010, pp.135-138)。長くリスク(危険)に関する研究を行ってきた立場としては、これはひじょうに言いにくいことに違いない。しかし、この判断の方がギンタスの変な擁護論よりも、よほど先の展望につながるものだろう。酒井は、5.4節の最後の段落でこう語っている。

いまや、視野の狭い「リスク経済学」を乗り越えるべき好機である。われわれはナイト理論に立ち返り、リスクと不確実性の違いを再認識しなければならないだろう。そして新しいヴィジョンと新しいモデル作りを試みることによって、真の意味での「不確実性の経済学」の樹立を図らなければならないだろう。

酒井が第5章の最後を5.5「進化経済学との関係/おわりに」という節で結んでいるのは象徴的である。進化経済学は、このような挑戦に乗り出すべきだし、閉塞する現在の経済学にひとつのブレークスルーを与える可能性がある。  ギンタスにいわせれば、ギンタス(2011)第1章は、のちに中心的に議論する行動ゲーム理論と認知的ゲーム理論への導入であり、短い前提的紹介として現在のような構成になっているのであって、おもな主張は第1章にはないのかもしれない。しかし、これが実質的な最終章「12 行動科学の統合に向けて」と組み合わせられると、合理的主体モデル(BPCモデル)の手放しの賞賛と可能性示唆に繋がってしまう。これは、けっして真摯な研究者の取るべき態度ではないし、科学的態度でもない。科学の諸理論は、ほとんど確実にその適用限界を明示している。行動科学の枠組みにはこのような限界があるが、そうした限界内ではていどだが、行動ゲームと認知的ゲームの枠内でこのような研究ができているというなら、真摯で謙虚でもあり、また読者にも共感を呼ぶであろう。しかし、趣旨説明(2)の「どう読むべきか」に引用したような主張は、こうした態度とはほぼ正反対のものである。

以上の批評は、行動理論の基礎概念としての確率については、とくに新しいものではない。しかし、確率概念をもちいない意思決定理論(行動理論)については、どのようなことが考えられるであろうか。

経済学は、これまで選択と決定とをほぼ同一のものと考えてきた。この公式をまず変える必要があろう。あらゆる場面において、意思決定は必要である。たとえ慣習に従う場合でも、それは慣習を受け入れるという決定を行っている。決定のないいっさいの経営行動はありえない。したがって、決定がいかに行なわれているかを考え、そこに妥当な理論を構築することは、すくなくとも人間の行動科学をめざす以上、ぜひとも必要なことである。しかし、それが選択理論である必要はほとんどない。効用最大化という観点から意思決定とそれにともなう行動を説明できる場面がないわけではないが、それはごく限られた領域である。

それでは、どう考えたらよいのだろうか。わたしが複雑さが鍵となると考え、ハイナーのCDギャップ論に大きな刺激を受けたのは、このような意思決定問題についての理論を考えるためだった(塩沢由典, 1990, 第11章; 1997, 第1章・第2章)。複雑さは、客観的な状況として存在しているよりも、課題の設定の仕方と人間の認知能力・推論能力に関係している。サイモンが示したように、課題を変えれば、解けない最大化問題も解けるようになる。サイモンは、合理性の限界のみを強調したが、認知能力や情報収集能力にも限界があり、解けた問題が有効であるためには、解がわれわれの実行能力の範囲内になければならないという制約もある。限定合理性のみならず、人間能力の限界を視野の限界・合理性の限界・働きかけの限界と3つに分けたのはダニの産卵のようなもっとも初等的な行動でも、それぞれこれらの限界を潜り抜ける工夫があることが見て取れたからである(塩沢由典, 1990, §11.3)。

ハイナー(Heiner, 1983)が喝破したように、(ワラジムシやダニやハエのような)初等動物の行動が予測可能なのは、かれらが定型化された行動、プログラム化された行動にしたがっているからである。行動の見かけ上の複雑さは、環境の複雑さ(たとえば、地形の微妙なしわ)による。ギンタス(2011)は、行動理論の統合を謳い、その基礎となる核を提供すると主張しているが、人間や動物の行動そのものについて、それがどのような構造をもち、実現されているかに関する考察も説明もない。ゲーム理論の枠組みに従って、行動は選択すべき戦略としてしか捉えられていない。しかし、動物も人間も、選択行動する場合よりも、定型行動に従っている場合の方が多い。

定型行動はルーティンと言い換えることもできる。ネルソン&ウィンター(2007)は、進化経済学の号砲ともいうべき画期的書物であった。ネルソンとウィンターがその研究の基礎においたのは、このルーティンだった。ギンタス(2011)は、ルーティンについてほんど語っていない。それについて語っているのは心理学を批評するときのみと思われる。その初出は12.6「合理的選択:モデル」の347ページにある。ここで、ギンタスは、「合理的主体モデルは現在の経済理論の礎であり、過去20〜30年の間に生物学における動物行動のモデル化の核心となった。...この事態が生じたのは、認知心理学で適用される、選択が{慎重になされる}というパラダイムとは逆に、...選択が{習慣的になされる}(routine)というパラダイムのためであると考える。」[強調はギンタス](ギンタス, 2011, p.347)と指摘し、ついでサイモンの限定合理性に触れるが、どうもそれが満足化行動と定式化されていることに不満なようだ。次節12.7「慎重な選択:心理学モデル」では、以下のようにいう。

心理学者の大半は、ルーティンに基づく選択に関する領域の中で、選択行動を適切にモデル化したものとして合理的主体モデルを受け入れる。しかし、彼らは、研究対象であるより複雑な状況にこのモデルを拡張して用いるよい方法がないことも認識している。
 (中略、段落)
このように、意思決定に関する経済学的アプローチと心理学的アプローチの間に深い隔たりはない。  (ギンタス, 2011, p.349)

段落のあと、わたしは「経済学的アプローチと心理学的アプローチの間に隔たりは深い。」というものかといっしゅん思ったが、結論は反対であった。こういったものの、意思決定に関する両者の対立は大きいと思っているのか、第14節では「対比点:心理学」をおき、こう語る。

心理学者はこれらの貢献[塩沢注:フレーミング効果など]を誤って使用し、合理的主体モデルに継続的な攻撃を加え、多く研究者は合理的主体モデルを否定し、合理的主体の伝統とはきわめて異なる別の選択枝(...)を探し求めるようになった。伝統的な意思決定理論をこのように否定することで、感情的には満足できる。しかし、このような否定は未熟であり、近視眼的であり、科学に対する破壊行為である。伝統的な意思決定理論に現れる兆しはないし、それが現れそうにないことは1つの理由から明らかである。すなわち、でトン雨滴な意思決定理論はほとんどの場合正しく、正しくない場合には、それを説明する原理が、既存理論と対立的な形でむしろ補完的な形で用意されている。たとえば、(以下略)   (ギンタス, 2011, pp.359-360)

大した確信であるが、これはギンタスが複雑さの問題をまったく理解していなことを示している。慎重な意思決定とルーティン意思決定の対比は、Katona(1951)が「純正の決定」(genuine decision)と「習慣的行動」(habitual behavior)として導入したものである。コルナイ(1975)はこれを受けて「根本的決定過程」と「習慣的決定過程」という区別を立てた。経済学ないし経営学における行動理論として、いずれも古典的なものである(塩沢由典, 1997, p.61)。分野違いのものとしてコルナイに言及しないのは分かるが、ギンタス(2011)には、Katona(1951)への言及もない。ギンタスが「心理学と経済学がもつ、意思決定に関する両者の対立を解決するため」として示唆する4点のうち、第1点「心理学と経済学は慎重な意思決定とルーティン意思決定の間の違いを認識すべきである」(ギンタス, 2011, p.360)は、心理学と少なくとも経済行動の心理学に関心をもつような経済学者には周知の事実である 。第2点「心理学は、...、ルーティン意思決定の進化を学問的枠組みの核心に取り入れるべきである」(同)は、一面では正しいが、人間行動の心理学が取り組むべき複雑な状況における課題に関する意思決定が期待効用最大化によっては適切に分析できないことをギンタスは知るべきであろう。ハイナーの概念を借りれば、大きなCDギャップがあるときに、いかにして実行可能な解を見つけているかが、この分野の行動科学の核心である(とわたしは信ずる)。ギンタス(2011)には、そうした観点への関心はまったくみられない。これでは、心理学者からも、経営学者からも(そして、よく考えている経済学者からも)反発が出るのはとうぜんであろう。

人間の意思決定が問題になるとき、ギンタス(2011)は、ルーティン意思決定に注目せよというが、ルーティン意思決定は、ルーティンに基づいて判断されている。それは無限の計算(あるいは推論)を繰り返すことでも、莫大な選択肢の集合を見渡して、最大の選択肢を探し出すことでもない。心理学者が批判されなければならないのは、かれらが実験可能な状況と行動にこだわるあまり、きわめて簡単な状況と単純な課題のみしか研究していないことにある。この点は、(6)「ゲーム理論と実験経済学」においてふたたび取り上げる。

このようにいうとギンタスは、また「それは人間の合理的思考を否定するものだ」と思うかもしれない。しかし、事実は逆である。期待効用理論は、選択集合と結果の集合とを結ぶ確率分布に依存している。この分布の推定に大きな問題がある。主観確率は、じぶんが勝ってに思っているかぎり非難すべきものではないが、信念として存在する主観確率が物理的・社会的世界がもつ因果関係と大きく違うと、得られる結果は、確率的に平均したとしても、実際的に得られるものと大きく違う可能性がある。

期待効用理論を信ずる人たちは、この理論に基づいて得られた結果が最善であると考えているようだ。しかし、期待効用を計算する手続きを経ずによりよい結果が得られる可能性はいくらもある 。ルーティンに基づく意思決定は、採用されたルーティンが経験に照らしてよいものであるなら、そうなっている確率が高い。ルーティンに基づく意思決定は、さいていげん3つの部分からなる。ルーティンは、目標と対になったものだから、なにを目標とするかはこのさい問題にしない。3つとは、

 @観察すべき状況(とくに、観察すべき少数の変数)
 A状況に応じた計算手続き(推論方法)
 B得られた解の実行可能性

である。Aは、最適化を含むかもしれないが、かならずしもそうされているとは限らない。単純にいる手続きが与えられているかもしれない。この手続きは、後にその妥当性ないし目的合理性が明らかにされるかもしれないし、反対に手続きを変更するとよりよい結果が得られることが判明するかもしれない。たとえば、在庫管理では、S-s法とかTwo Bin Methodとか言われる方法(在庫量がsをきると在庫量Sを回復するように追加生産を発注する)は、Sとsとを適切に取るかぎり、確率論で考えても(部分的に、つまり注文がある種の確率分布に従うかぎり)妥当であることが証明されている(Karlin, 1958) 。

期待効用理論の弱いところは、良く知られている。上で述べたように選択集合と結果の集合とを結ぶ確率分布を比較的正確に推定することが難しいことにある。主観確率だから、客観性は問題にならないという人は、(迷信であれ、経験則であれ)期待効用理論以外の方法を信ずる人と合理的思考の水準においてなんら変わりがない。期待効用理論のみがゆいいつ合理的な意思決定方法だと信ずるひとは、きわめて非合理な信念を抱いているのである。

確率分布を比較的正確に推定することが難しいという弱点に対する弁護論として頻繁にもちだされるのが、ベイズ推定である。ギンタス(2011)では、1.5「ベイズ合理性と主観的事前分布」で、ひとが一貫した選好をもつならば、一貫した確率分布が存在しうることを説いている 。ギンタスはこのようにして存在を保証された確率分布をベイズ的事前分布と呼んでいる。しかし、不思議なことにベイズ推定については、なぜなにも解説されていない。ギンタス(2011)は、存在が保障されれば、それは正しく知ることができると考えているのだろうか。それも不思議であるが、ベイズ推定の肝心のところは、最初にもっていた主観的確率を経験(事象の系列)によって修正していくところにある。それを繰り返せば、主観確率は客観的な確率に近づくであろうというのが一般的な考えであるが、それは正しいだろうか。もし正しいとしても、比較的正確な推定に到達するまでに、どんでもなく長い時系列が必要となる可能性がたかい。推定すべきは選択集合と結果の集合とを結ぶ確率分布である。選択肢の数がM、結果の数がNとすると、MN個の確率を推定なければならない。一回の試行で選択肢と結果のひとつの対が判明したしても、それはきわめて乏しい情報でしかない。MNの数倍の試行を繰り返してようやく、あるていど妥当な主観確率に到達するであろうが、それだけの試行を繰り返す前に、期待効用理論によりよりもずつと簡単で、しかも成果の高いルーティンが見つかるかもしれない。

期待効用理論の問題点と、やや複雑な状況において人間がどのような判断と意思決定を行っているかについては、わたしは塩沢由典(1998)でながながと論じている 。このような重大ではあるが込み入った議論は、数行あるいは数ページでできるものではない。上の立論も、塩沢由典(1998)のごく簡単な紹介でしかない。関心のある方は、ぜひ塩沢由典(1998)に当ってほしい。

期待効用理論をじっさいに用いようとする場合は、ベイズ推定を行いつつ、いつ判断を打ち切って決定するかという問題が大切である。Wald(1950)は、この意思決定問題に取り組んだ労作であるが、Savage(1951)にはこの点はまったく紹介されていない。


補論 グリムシャー『神経経済学入門』(2008)

ギンタス(2011)とはまったか関係ないが、確率概念および確率論をあやまった権威付けあるいは研究方法区分に使った例として、グリムシャー(2008)の提示しているスキームに触れておこう。神経経済学は、意思決定や好き嫌いの感情などを大脳皮質の興奮部位などと関係付けるという方法によって(いちぶは過大な自己宣伝もあって)、日本でもけっこう関心をもたれている。神経経済学は、グリムシャーだけが推進しているものでないが、グリムシャー(2008)は、米国出版社協会専門学術書賞を受賞し、日本では一定の学術的水準を保ったものとして現在のところ唯一のものである。

この補論は、神経経済学そのものに関する論評ではない。意思決定や好き嫌いには、まだ未知のことがおおく、それが脳科学の応用ですこしでも明らかになることがあれば、それはそれでよい。ちまたにあふれている神経経済学の疑似科学的部分をそぎ落とすのは、科学ジャーナリストや経済記者の役割であろう。ここで、グリムシャー(2008)を取りあげるのは、この本の帯にあるように神経経済学が「決定論から確率論的アプローチへ脳科学を転換させた」と主張しているからである。決定論と確率論の二分法自体に問題があるが []、神経科学・脳科学に確率論的思考が新しい問題意識をもたらしたことは否定できないだろう。しかし、この本が描き出す神経科学と行動科学に関する「転換」の構図は大きな虚構である。

グリムシャー(2008)は、神経科学の研究が反射という決定論に基づいており、マー(1987)によって、はじめて確率論的思考が神経科学に導入されたという。しかし、マー(1987)以前の代表がチャールズ・スコット・シェリントン(Charles Scott Sherrington, 1857-1952)といのには驚かされる。シェリントンは、1932年にノーベル生理学賞をうけたが、1936年にはオクスフォード大学を引退している。かれの権威がいかに大きく、その枠組みがながく支配的であったとしても、神経科学・脳科学がシェリントン以降、大きな進歩がなかったとは考えられない。グリムシャー(2008)は、マー(1987)以前のものとしてローゼンブラットのパーセプトロンが批判されている。その際、グリムシャー(2008)はミンスキーとパパート(1993)を引き、「達成可能なことに制約」があることが分かり、「パーセプトロンに類する機会に対する科学者の興味を急速に消沈させる効果があった」としている(グリムシャー, 2008, p.132.)。これは、ミンスキーとパパート(1993)による単純パーセプトロンが線型分離不可能なパタンを認識できないことを指しているのだろうが、その後(1982年)、ホップフィールド・ネットワークが発表され、1986年にマクレラン他(1989)が出て、ニューラルネットワークとコネクショニズムは、第2次ブームというべき状況が出現している。ニューラルネットワークとコネクショニズムは、わたしの専門ではまったくないが、やや遠くから見ていたわたしでもこの程度の動きは当時の経験によって知っている。

デビッド・マーがミンスキーとパパート(1993)に影響を受けて、それを乗り越えるべくマー(1987)を書いたというのはよいだろう。グリムシャー(2008)は、マー(1987)により神経生理学に大きな転換が起こったという。その転換を、グリムシャー(2008)は、次のように説明する。

マー(1987)において、脳の働きを理解するには、個別の機能でなく、概観ないしトップから始めなければならないという考えへの転換が起こった(グリムシャー, 2008, p.133)。これをグリムシャー(2008)は「計算論的神経科学」(computational neuro science)と名づけている(グリムシャー, 2008, p.134)。デビッド・マー自身を引用すると、マーは計算理論の重要性を説いて「アルゴリズムと機構は経験論的に研究可能であるが、情報処理の観点から決定的に重要なのは、最上位階層である計算理論の階層である。」「ニューロンのもの研究によって近くを理解しようとすることは、羽根のみを研究することによって鳥が飛ぶことを理解しようとするのに似ている。」(グリムシャー, 2008, p.138から抜粋)

こうした説明のあとで、グリムシャー(2008)は、こうまとめる。

デカルト-シェリングトン的な取組み方では、行動を可能な最小構成要素に還元することに焦点を当ててきました。これらの基本構成要素は、それらかせすべての行動が構成される攻勢単位であると見なされました。すべての要素が基本的構成要素から構成されうることを証明しようとした数学者と論理家の業績に基づいて、この見解は支持されていました。しかし、デビッド・マールによって違った考え方が生まれました。すなわち、行動と脳との関連性を理解するためには、「行動の目標あるいは機能を理解することからはじめなければならない」ということです。その後で、脳がどのようにしてその目標を達成するかを問い始めることができるのです。 (グリムシャー, 2008, p.139)

「最上位階層である計算理論の階層」を行動の目標とするとき、脳はいったいどのようにしてそのような機能を獲得してきたのだろうか。デビット・マーは、「ごく暗示的に」「生物系は進化により必然的に理論的に定義された計算目標を効率的達成する方向に向ったとも推測していました。」(グリムシャー, 2008, p.140)というだけでグリムシャー(2008)は、その第6章「包括的な計算」を終えている。その後、「モジュール性と進化」と題する1章をはさんだあと、グリムシャー(2008)は、第U部「神経経済学」の冒頭に第8章「目標を定義する/デビッド・マーのアプローチを拡張する」では、包括的目標として進化生物学の「包括適応度」の概念を引用する。グリムシャー(2008)の考える神経経済学がここからは始まったという意味で、この飛躍は許されるし、創見であるといってもよい。しかし、「あらゆる行動には包括適応度(inclusive fitness)の最大化という唯一の目標が存在する」となるとかなり問題が大きい(グリムシャー, 2008, p.170)。このあと、グリムシャー(2008)は、このテーゼを中心にかれの神経経済学を展開するのだが、そこで確率論が「決定論的なモデルに替えて」出てくる(グリムシャー, 2008, p.171)。第T部「歴史的な取り組み」の中で決定論と反射理論に延々と異を唱え、確率論の歴史を折に触れて紹介してきたのはこのためだったというわけである。より端的な発言を引用するなら「神経生物学がこんにち直面している基本的な限界は、脳を理解するために用いるアプローチに確率理論を適切に取り込むことに失敗していることによる、というのが本書の主題です」(グリムシャー, 2008, p.171)という。

さきにわたしが「神経科学と行動科学に関する「転換」の構図は大きな虚構である」書いたのは、この点に関してである。ホップフィールド・ネットワークによりニューラルネットワークのブームが来るとほぼ同時に、Ackley, Hinton, and Sejnowski (1985)が出て、確率的な学習が導入されている。確率論によるモデルの拡張は、そう難しいことではなく、また珍しいことでもない。たしかに、これは神経生理学そのものではないが、Ackley, Hinton, and Sejnowski (1985)が Cognitive Scienceという雑誌であったことから見られるように、神経科学にじゅうぶん近いところで、すでにこういう思考は確実に存在していた。「神経生物学[の]基本的な限界は、確率理論を適切に取り込むことに失敗していること」というのは、状況証拠から言ってありえないことである。

さらにすこし拡げて、行動科学との関連でいえば、行動主義心理学を見逃すわけにはいかない。グリムシャー(2008)が反射理論の代表例の一つとするパブロフの条件反射やワトソンの刺激反応心理学は決定論的なものであるが、スキナー(Burrhus Frederic Skinner,1904-1990)のオペラント学習は、レスポンデント学習と異なり、自発的な行動に対する環境変化に応じて、その自発的出現頻度雅変化するという理論である。これはソーンダイク(Edward L. Thorndike, 1874- 1949)の試行錯誤学習をもとに考えられたものであり、けっしてけって決定論的な行動理論ではない。このようなことは、心理学のごくふつうの教科書に載っている事実であるが、グリムシャー(2008)にはいっさい言及されていない。

どうやらグリムシャー(2008)は、デカルト以来の世界観について、ずいぶん単純な理解をもっているようだ。近代哲学の祖であり、座標表示の創始者でもあったデカルト(Rene' Descartes, 1596-1650)は、また生理学者でもあった(グリムシャー, 2008, p.5)。「デカルトの業績の影響力と独自性が最も長く続いたのは、生理学者として」であったというのは、神経生理学出身者らしい指摘である。神経生理学におけるデカルトの代表作 L'Homme (『人間に関する論文』)において、デカルトはこう書き始めているという。「人間の観察可能なすべての行動は単純な行動と複雑な行動の2種類に分類可能である。」(グリムシャー, 2008, p.25)。

単純な行動とは、「決定論的に同一の行動応答を引き起こすような」行動であり、複雑な行動は、「間隔と行動の連結が予測不可能であり、意志の気まぐれによ従うような行動」だという(同)。この2分法に、デカルトの有名な、人間は「魂と体とから構成されるている」という2元論が対応しているという(同)。グリムシャー(2008)によれば、これが「人間の行動ですら物理学の研究分野でありうる」(グリムシャー, 2008, p.7)という主張とともに、神経科学を可能にする第一歩となった。デカルトは、これを一般論として主張しただけでなく、『人間に関する論文』の中で「神経科学に対して二番目の決定的な貢献を果たした...脳がいかにして決定論的な行動を実際に生成するか、についての理論を提供した」(グリムシャー, 2008, p.33)という。

複雑な行動は、魂の意志によるものであり、単純な行動は体の機械的な反応によるものだから、それを物理学的に調べることができるというのがデカルトの構想だった。ここで、グリムシャー(2008)は、もうひとつ並行した二元論をもちこむ。ひとつが決定論の考えであり、もうひとつが非決定論的なものであり、前者には体が、後者には魂が対応する。したがって(とわたしは推量するのだが)、デカルトいらいデビット・マーまで、あるいは神経経済学の成立まで、生理学や行動科学は決定論であり、マー(1987)の構想を受けて神経経済学が成立するまで、確率論は原理として神経科学・神経生理学には入りえないものだったということらしい。構図の整理としてはきれいだが、あまにも乱暴な図式である。

このような図式を正当化するためか、あるいは神経経済学が経済学の考えを神経生理学・脳生理学に取り入れて成立していることを強調するためか、新しいアプローチは「不完全な知識しか持たない環境に直面している動物を理解しようと思えば必ず必要になる、確率理論という概念を取り入れている」(グリムシャー, 2008, pp.263-264)と主張する。そんなことは、神経経済学の成立以前にもじゅうぶん分かっていたと思うが、グリムシャー(2008)は、デカルトいらいの科学と数学の歴史を延々と語るなかで読者を説得している。  このような説得にだまされてしまう読者も読者だが、数学の歴史にも、生理学の歴史にも、行動科学の歴史にも、まったく知識のない読者はグリムシャー(2008)の「博識」の前に平伏してしまうのだろう。しかし、確率論と経済学あるいはゲーム理論を盾に神経経済学を説明してみせるところは、経済学とゲーム理論をすこしばかり知っているものとっては、おそろしく粗雑なものである。

その典型的な例が「採餌理論」に関するものである。これはGirenzer他(2000)に例を借りたものというが、Girenzer他(2000)に本当にこうした説明があるかどうかは分からない。餌がランダムに分布して絶えず動いている、大規模な世界に生息する1個の細菌を考えてみようとグリムシャー(2008, p.196)はいう。このような状況下で餌を見つけるいう問題に対する最適解はなにか。グリムシャー(2008)はこう自問し、「答えは、その細菌がエサを探してランダムな方向に進行方向を変えること」という(同)。これが最適解であることはまちがいないが、これは唯一の最適解だろうか。とんでもない。もし平面が無限に大きいならば、細菌が直線することも最適解である。広さがもし有限であるとして、縦横の長さが同じ正方形とすれば、進む角度が縦横の軸に対し傾きが無理数であるなら、これも最適解である。さらに、ある時間進んであと(これはランダムでも一定時間でもよい)一定角度で同一方向に進行方向を曲げるというものでも、角度が全周(2π)の無理数倍であれば、同じことである。ただし、壁にぶつかったら、光が反射すると同じようにすすむものとする。ここには何のランダム性もないが、こうした機械的な行動も、「ランダムに進行方向を変える」という行動とおなじように最適である。しかし、グリムシャー(2008)は、こうした決定論的な最適解がいくらでもあることに、知ってか知らずか、なにも言及しない。しかし、こうした説明のあと、グリムシャー(2008)はこう断言する。

この細菌の例は、効率的な行動を生成するという問題をどのように生物が進化レベルで解くのかということを、経済理論を用いて考えるための原型になります。この場合では、進化の効用関数を、細菌が食べるエサの量を最大化する過程と見なすことができます。...ランダム探索は1つの最適な行動であり、最適に適応した1つの細菌を生み出します。(グリムシャー, 2008, p.197)

こういうめちゃめちゃな説明を与えていることから、グリムシャー(2008)が行動や神経系の進化の問題をなにも深く考えていないことが見てとれる。かれは「包括適応度」という概念を一つもってくるだけである。それを最大化するという目的を神経系がもち、かつそれが実現できるように神経組織や受容器官、捕食装置が進化すると考えている。

たとえば、グリムシャー(2008)は、ローゼンブラットのパーセプトロンがローゼンブラットが考えたほどの一般適用性・拡張性がないと指摘しているが、では神経系は、適応度を最大化するという「目的」をもつことでどこまで進化できるのだろうか。うまく進化して、人間のような高等動物が備えている機能が発達できるという遺伝学的、あるいは発生論的保障はどこにもない。ここには、多数の選択肢と多数の結果とのあいだの遷移確率を推定するときベイズ推定が直面する以上の深刻な理論的断絶がある。神経組織の発達可能性や計算処理を問題にしていたはずなのに、デビット・マール以後の神経経済学は、ただ生物進化論を信ずるということでしかない。進化生物学の基本的パラダイムはこの通りだが、それを援用して、計算理論の階層も進化論的に説明できる可能性があると指摘しただけである。これで過去の学説を一段階前に進めたことになるだろうか。

ハミルトンの包括適応度は、真社会性動物の進化を説明するために考えだされたものであって、通常の社会的分化をしない種のばあい、簡単に適応度といってもよい。したがって、以下では簡単に適応度という。グリムシャー(2008)は、種の進化が適応度を最大化するように働くと解釈しているが、あまり厳密とはいえない。進化生物学でも、つうじょうこう説明されているが、適応度が高い方がいいとは、いちがいには言えない。

適応度が高いことは、増殖率を高めるとされるが、もし増殖率が長期にわたって1以上のある値に維持されると、種の個体数は幾何級数的に増大する。しばらくはそうした状況が続くであろうが、同じ採餌行動をする個体数密度が大きくなりすぎると、みずからの環境を悪化させる。もしある種の個体数がある水準にとどまるというのが代表的とすると、増殖率はかならず1の近傍にあることになる。適応度を高めるという概念も簡単ではない。  気候変動や生態環境、種の個体数密度、病原菌等による感染などにより、環境は一定ではなく、ときどきに変化する。あるときは死亡率があがり、種の全個体数が大きく減少するかもしれない。そのとき、個体群があまり小さくなって絶滅しないよう、ある程度の個体数は必要だ。つうじょうは有利でない形質が、そのような危機に種の保存を助けるかもしれない。増殖率を大きくできるということは、危機が終わったとき急速に個体数を回復させることができる点で有利だが、その局面のみをみて適応度を論ずるわけにはいかない。たえず変動する環境において種が維持・存続されるためには、多様な種内の多様性も必要だ。こうしたことを考えると、ある形質のみを取り出して適応度最大化を考えることは意味がない。種全体の適応度を考えなければならない。これが性生殖が普遍化した主たる理由と考えられている。

グリムシャー(2008)が適応度を最大化するというとき、それはひとつの遺伝子の適応度をいっているのだろうか。多く遺伝子の集合体系としての個体の適応度をいっているのであろうか。マー(1982)にしたがって「最上位階層」の計算階層の進化を考えるとき、包括適応度という概念一つではすまないことは明らかである。パーセプトロンやニューロ・コンピュティングは、ただそれが進化できることを示しただけではない。みずからの応答と、実現した結果との際から、機械を学習させることが可能であることを示したところに、パーセプトロンやニューロ・コンピュティングの意義がある。その適用範囲がいくら狭いといっても、それは単なる「総括適応度を最大化させる」という一般的標語ではない。だぶん、グリムシャーは、グリムシャー(2008)では神経経済学の目指す方向=思想を示せばよいと考えたのであろう。現に、神経経済学の成果として現実に流布されている研究を見ると、MRIなどを使って脳の局部的興奮を見ているものがおおい。グリムシャー(2008)が解く神経経済学の革新とはそうとう距離がある。

グリムシャー(2008)が経済学と進化理論とを援用しようとするとき、かれの念頭にあるのは「合理的な選択という経済学により、不確実性が関与し、効用関数が定義可能な問題に対する最適解を同定することができる」ことらしい(グリムシャー, 2008, p.196)。この最適解同定問題で例として出されているのが、上に紹介した細菌の催餌行動である。きわめて粗雑な考察であるとしかいいようがない。

グリムシャー(2008, p.202)は、自己の研究プログラムを補強する例証として、行動生態学あるいは生態生物学を引用している。与えられた環境の中で動物がいかに生き残っていく活動を行っているかは、生態生物学の重要な部分である。この側面では、生態生物学は経済学と類似の考察を行なうことが多い。限られた資源の中でみずからの可能な能力を生かして生活していかなければならないのであるから、動物たちがある種の「経済計算」を行っていても不思議はない。第9章には、上に引いた細菌の催餌行動の例(第8章)ではなく、哺乳類の捕食行動の例(Charnov, 1973)が引かれている。ライオンが食物を得ようとするとき、水牛を襲うのとイボイノシシを襲うのとどちらがいいだろうか。それぞれの動物をしとめるのに必要なエネルギーと、しとめたときに得られる肉の量を比較してみると、どちらを襲うのがより有利かという計算ができる。平均利得を探索・襲撃・処理に掛かる時間で割った比率をエネルギー摂取率と定義すると、これを最大化する戦略を動物が取っているかどうかという検証問題が生まれる。定式化に依存するが、式を微分して最適解条件を求めると、解はつうじょう「0-1ルール」にしたがう。言い換えれば、ある種が襲われ襲われないかは、決まっている。つまり、この種の最大化問題では、内点解は現れず、端点解(コーナ解)のみが現れるという。この点には、グリムシャー(2008, p.210)は、Stephens and Krebs (1986)を参照するよう求めている。

これをKrebs, et al. (1977)は、実験室環境で検証している。結果は、予想されたものにはならなかった。この事実についてはいろいろな解釈ができるが、グリムシャー(2008, pp.216-217)は、Krebs, et al. (1977)の解釈とは別に2つの解釈が可能であるという。一つは、「このトリは最適に行動することができないのかもしれない」というもの、もう一つは「不確実であることが、今まで以上思ってきたよりも動物行動の本質的な特徴であるかもしれない」というものである。グリムシャー(2008)は、第2の解釈を採用するといい、サルを用いた脳の視覚処理について長い第10章(pp.219-262)を書いているが、明確な結論が得られているとは思えない 。

動物の行動を考えようとするとき、グリムシャー(2008, p.216)が問題を立てるように「限られた資源に対する動物間のゲームと競争」という観点から、ある種の問題が解けることに問題はない。動物たちは、かなりの場合に、厳しい環境の中で生き抜くことを余儀なくされている。その面から光を当てて、動物たちがどのように厳しい条件の中で生活を組み立てているか知ることは、ぜひとも行なわなければならない研究である。しかし、生物の生活環境がつねに生存を脅かすものかどうかについても、考えなければならない。多くの動物の採餌行動に掛ける時間は、現代人に比べても、多いものばかりとはいえない。したがって、「限られた資源に対する動物間のゲームと競争」という枠組みは、動物たちの現実の条件の反映であると同時に、近代の経済社会に生きるわれわれの世界観を移行させたものである可能性も高い。神経経済学は、グリムシャー(2008)の訳者宮下英三がいうように、「現状では経済学によって脳を理解しようとする「経済神経学」」である(グリムシャー, 2008, iii)。経済学の思考方法が神経生理学に移植されているのであって、そこで確率概念や効用概念(包括適応度)や最大化行動が語られているからといって、新古典派経済学の思考が脳レベルで確認されたといえるものではとうていない。

「0-1ルール」についていえば、Stephens and Krebs (1986)たちが発見したのは、H.A.サイモンのいう実質合理性の範囲における最適条件にちかい。それを動物たち(あるいは動物の脳)が達成できるかどうか、つまり手続き合理性をもっているかどうかというと、実験結果も示しているように、シジュウカラは、実質的最適解を発見するたけの手続き合理性(知的能力)をもっていなかったというべきであろう。それでは0-1ルールは、意味のないものだろうか。そうではない。0-1ルールは、環境と動物との関係がそのような簡単化を許す構造をもっていることを示している。そのような場合には、とくに高い知的能力を要請することなく、かなり効率的な行動が可能になることを意味する。スキナーのオペラント学習と類似の行動によって、偶然に正解を得るならば、あとは満足原理にしたがって、その解を保持すればよいのである。

(5)では、期待効用理論にしたがって確率推定を含む複雑な計算を行なわなくても、ほぼ適切な行動を発見できる可能性に言及した。不確実な状況のなかで、人間の知的活動が期待効用理論としてしか発揮できないと考えている固定観念こそ問題である。その固定観念は、そっくりそのままグリムシャー(2008)に引き写されている。かれは確率理論が「不完全な知識しか持たない環境に直面している動物を理解しようと思うときかならず必要になる」と断言している(グリムシャー, 2008, 264)。しかし、それは動物の行動・人間の行動を深く考えていない証拠でしかない。


(6)ゲーム理論とその周辺

この節では、ギンタス(2011)からやや離れて、ゲームの理論とその周辺に関するわたしの感想を記しておきたい。じゅうぶんな調査に基づくものではないことは断っておく。  とはいえ、ギンタス(2011)からまったく離れるということではない。中心となるのは、すでに最初に取り上げた金タスの主張:合理的主体モデルとゲームの理論について「これらこそすべての行動科学につとって核となる道具であって、それなしには核となる理論は存在しえないのだ」(p.xi)の妥当性にである。この節では、ギンタス(2011)の具体的文面から離れて、もう少し広い視野から考え直してみたい。

3つの領域の議論が必要であろう。@われわれの知的達成のなかで、ゲーム理論をどう位置づけるか、A行動諸科学の核となる道具をどう考えるか、そしてB経済学は行動科学 か、という問題である。Bは、むしろ(7)に深く触れるものであるので、本節ではゲーム理論や行動科学に関係するかぎりで触れるにとどめる。

まず、ゲーム理論について。ゲーム理論の豊饒さには疑いない。フォン・ノイマンとモルゲンシュタンがゲーム理論を創始したとき、それはほとんどゼロサム・ゲームだった。それはナッシュの天才的な貢献によって非ゼロサム・ゲームに拡大され、きわめて限定された知性がおこなうゲームとして進化ゲームが生まれた。他方、それらは人間や他の動物たちの戦略行動を予測する枠組みとしても活用され、行動ゲーム理論、認識的ゲームへと展開され、実験経済学や行動経済学に対しても豊富な状況を提供している。数学理論が、幾何学、解析学(微積分学)、線形代数、確率論に限定されていたならあり得なかったような議論がゲーム理論によって可能になった。経済学の準備教育のレパートリの中に、日本のどの大学も標準的にゲーム理論を教えなければならなっている(教育体系の問題にはついては(7)でも触れる)。

だが、ゲーム理論が基本的に数学の一部であることから、必然的に生ずる問題の水準があることも事実である。誤解なきよう言っておくが、これはかつてのソ連官制哲学との支配下にあった経済学が「数学を使うのは非弁証法的である」といったものとはまったくことなる(塩沢由典,2009)。わたしは数学的定式によって思考を整理し、また論理の整合性を確認することができるようになったことは、経済学にとってとてもよいことだったと考えている。一般均衡理論は市場経済のまちがった定式化であるとわたしは考えているが、たとえば、Arrow and Debreu(1954)が厳密で美しい数学理論だと考えているだけでなく、それが経済学という学問にとって、論理の一般水準をはるかに高くするという大きな貢献をしたと考えている。19世紀中ごろまでの経済学と21世紀初めの経済学の本質的違いはそこにあろう。しかし、経済のような大規模で複雑な対象に数学を応用することには、数学のもっている必然的といってもよい限界に気づかねばならない。

それはなか。ことは数学というものの構造に根差している。数学は、論理の上に立っている 。その特徴は、論理の連鎖をかぎりなくつなげるということにある。ポアンカレは、数学と論理との違いの典型を数学的帰納法に見ている。自然数nを変項とする命題P(n)があって、
a) P(1)が成立する。
b) P(n)が成立するとき、P(n+1)が成立する
という二つが証明できれば、任意の自然数nに対し命題P(n)が成立するという証明方法である。数学的帰納法は、論理の形式主義、つまりA->Aという命題が成り立つとき、Aをどんな命題に置き換えてもよいという置換の原理とともに、有限の確認能力しかもたない人間が無限に分岐する状況について一般的命題を立てることのできるほとんど他に代替できない推論の方法である。

ただ、この方法は、論理の連鎖がいくら長くてもよいことを許す代償として、有限で打ち切られるような推論には基本的には適していない。たとえば、われわれはあの人の「頭の毛が薄い」といった表現を日常的に用い、それによって矛盾に出会うことはない。しかし、この表現をすこし変えて、「頭の髪の毛がn本の人は、頭の毛が薄い」という命題をP(n)とするとき、やや奇妙なことが起こる。この命題P(n)に数学的帰納法を当てはめてみよう。P(1)は、明確に成り立つ。髪の毛がn本でも「頭の毛が薄い」ならば、1本追加してのほとんど変わりないから、髪の毛がn+1本でも、やはり「頭の毛が薄い」と言わざるをえない。そうすると上の数学的帰納法a) b)が成立して、任意のnについてP(n)が成立することになる。

この推論はあきらかにおかしいが、その原因は「頭の毛が薄い」という術語がカテゴリカルでない(つまり、PかPでないかが確定していない)ことにある。だからといって、「頭の毛が薄い」といった表現を排除するにはあたらない。そればかりか、人間の言語はこのような表現に富んでいて、ほとんどの場合、それでうまくコミュニケーションが取れている。

カテゴリカルでない述語を用いた論理を組み立てようとして、様相論理とかファジー論理とかが提案されてきた。ファジー論理などは、制御系の設計には便利に使われたが、われわれの思考を助けるとなると問題が多い。ファジー論理の推論には、数学的帰納法は使えないのである。

ゲーム理論においても、同様の問題が生ずる。古典的ゲーム理論は、数学の範囲内にあるが、ゲーム理論を人間行動の予測理論として使おうとすると、いろいろ問題がでてくる。示唆的なのは、ギンタスの貢献も大きい認識的ゲーム(epistemic game)である。epistemicsは認識論だが、認識的ゲームは認識論的というよりは、これは忖度(そんたく)ゲームというべきものである。ゲームにおいては、プレイヤーAが選択した戦略のから得られる利得は、プレイヤーBの行動に依存する。もしAが選択に当たって、Bがどうするか推測することができれば、選択結果をよりよいものにできる。もしそうなら、BもAの選択について推測し、行動を決める。そうなると、Aがどう考えるかを忖度してBが決定していることを忖度してAが決定するということが起こる。

数学の典型的な考え方は、こういう推測がかぎりなく繰り返されるときどうなるかというものである。しかし、現実の人間は、なかなにかそういうことはできない。だから、数学の出番となる。共有知識の問題など、さまざまな知的には興味深い問題が生まれ、それらをよく考えるための理論も生まれる。そこから人間行動を判断すると、もちろん生身の人間は、理論的結果には従わない。生身の人間にとっては、あたらしく与えられた問題について2回・3回の推論を正しく行うのもなかなか難しい。そこで、人間行動の予測を行うとなると、忖度の回数を限定してみることになる。人間はさまざまな状況でどの程度まで忖度するか。これは実験によって、推定することができる。ギンタス(2011)には触れられていないが、これは、すでに数学理論としてのゲーム理論ではなく、人間行動を理解するためのゲーム理論である。

限定合理性の問題を正面から捉えて実験的に研究しようという試みは厳然と存在する(川越敏司, 2007, §4.2, §4.3; 2011, §4.5)。なぜギンタス(2011)は、ここした試みを無視して、限定合理性の問題を過少に評価しようとするのだろうか。すでに伸べたように、ギンタスの仕事の重要部分が認識論ゲームにあるが、ギンタス(2011)は、合理性にこだわり、限定合理性を認めようとしないため、議論が明快になっていないばかりか、混乱の元ともなっている。「不合理」とか「利己的」とかを振り回す非合理な議論によほど付き合わされたせいか、合理的な推論、一貫した選好をなんとかして守ろうと躍起である。  論理の無限の連鎖を重視するかどうかは、数学と物理学の分かれ目でもある。近代科学の典型として、つねに模範とされてきた物理学でも、論理の切れ目はいたるところにある。もちろん、古典解析力学のように、すでに数学化されてしまった領域では、物理学と数学とは融合してしまっている。しかし、それ以外の多くの場面では、論理のつながらないところを物理学者は、物理的直観とか言って大胆な仮説を立て、それがただしいかどうかは、論理的に確認しようとすることもあるが、多くの場合は、競合する仮説のうちどれがただしぃか、実験により確かめようとする。経済学と物理学の学風の大きなちがいは、論理性は重視するが事実との整合性にはかなり鈍感であることである。実験経済学・行動経済学の生み出したアノマリーだけでなく、より古典的な主題におけるアノマリー、たとえば国際貿易論におけるレオンチエフ・パラドックスや、他の多くのアノマリーについても、その発見が理論の修正を促すよりも、なぜ理論通りにならないかのアドホックな説明に終始している例が圧倒的に多い(塩沢由典,2009b)。

経済学と物理学の学風のちがいについては、ギンタス(2011)も、序文で触れている。物理学の教科書(量子力学)は、黒体輻射に関する変則事態から始まって、光電効果、コンプトン散乱、原子のスペクトルについて語り、新しい理論がいかにしてそれらを説明できるようになったかが書かれていた。これとは対照的に、ミクロ経済学の教科書では「その数学的美しさにもかかわらず、1,000ページにも及ぶ教科書のどこにもただ1つの事実も含まれていなかった」というのである(ギンタス, 2011, p.xvii)。これは重要な感慨であるが、残念ながらギンタス(2011)はひとつ重要な事実を無視している。それは物理学では、変則を真剣に受け止めて量子力学を作っていったのにたいし、経済学はそうしようとしなかったという事実である。のちに触れることになるが、一般均衡理論は、その理論的部品(消費者の効用関数、企業の生産集合)から、定式化(効用最大化、利潤最大化)、解の特性(同時決済の要請、均衡模索時間、安定性)、想定される規模(参加者数、商品数)など、ほとんどあらゆる角度から疑問が提起されているが、ギンタス(2011)は、4人の買い手と4人の売り手という実験的状況で新古典派(この場合、アロー・ドブルーなどが発展させたワルラス的一般均衡モデル)の予測が劇的に示されたことをもって擁護している(ギンタス, -2011, pp.75-76)。

経済システムが無限の推論が現実的な体系であるか否かは、経済学にとって重要な争点となっている。合理的期待形成理論がそれである。人々が経済について正しい理論をもち、そのように行動するならば、財政支出政策は無効となるというのがその骨子である。ここに経済に関するひとびとの抱く理論とそれに基づく行動が経済のありようを変えるという問題がある。経済システムが数学のように無限の推論を許容する体系ならば、合理的形成仮説は正しいものとなるだろう。しかし、ひとびとが理論を知らないとか、インフレについて間違った期待をもっていたりするなら、合理的期待形成仮説は成り立たない。  他人がどう考えるかを忖度して行動するという古典的な状況は、ケインズが美人投票の例として引いている。この場合に、もしひとびとがもつ美人の判定基準が明確であり、すべての人が共通にもつ知識となっているなら、すべての投票者がある1人の女性に投票することもありえる。しかし、もしそのような状況だとしたら、このような投票自体が成り立たない(まったく偶然のくじとかわらないものとなる)。あまり長くない推論の範囲に収まっている(レベルK理論でいえば、Kが小さい)から、美人投票は合理的推論をするひとにとって、挑戦的な推測問題になった。

金融経済では、証券価格が上がるかどうかのひとびとの予想が証券の売買注文を規定する。もしこれが極端に強くできると、1987年10月のブラック・マンデーのようなことが起こる。このとき、大幅な株価下落がおきたのは、@コンビュータによる自動取引が一般化していたこと、A一定の価格下落があったときには、自動的に売り注文を出すようプログラムされていた、という二つの事情による。そのような自動取引が禁じられたため、その後、同様のことは起こっていないが、金融資産市場の全体としては、期待が期待を生み、市場が不安定化する例は多くみられる。

ひとびとの推測は、あまり遠いところまで進まないからこそ、金融経済は安定している。推測の長さがきわめて限定されているということは、人間を不合理な行動をする動物と考えるかどうかとは独立に、現実の事実である。そのことを受け入れずに、人間の推論や選好に無限の一貫性を要求することは、数学問題としては許される(し、興味深い)が、人間の行動科学を目指すときには、大きな理論的障壁となる。それは、さまざまな側面・次元で現れる。

1) 人間が直面している状況を、つねに合理的な思考でカバーできる範囲に限定する。
2) 推論能力を超えた状況における人間行動を不合理とみなす。
3) 複雑な環境に人間がどのように対処しているかという問題設定ができない。
4) 最適化以外の意思決定方式が有効に機能することを理解できない。

1)は、実験経済学や行動経済学や行動心理学が陥りやすい傾向性である 。被験者には、やや難しいとしても、本来はなにが正解かを知ることができる状況設定を考えると、基本的に複雑さの程度がかなり限定された状況か、あるいは課される問題が解けるていどのものに限定される。実験経済学が行ったことは、能力に限界のある人間能力に合わせて、環境を制御することであった(つまり、実験で想定される環境は、きわめて単純であり、その結果は新古典派の批判に役立つものであっても、現実の経済における人間行動の研究としては、きわめて不十分なものである。) 最後通牒ゲームは、その典型的なかたちである。プロスペクト理論も、この批判から自由ではない。

川越敏司(2007, p.vii)の序文には、かれの研究をわたしが「まだまだ新古典派内部での批判に終わっている」と批評したと書かれているが、その内容については触れられていない。わたしが言いたかったことは、実験経済学がもつこの固有の壁を川越がどう乗り越えようとしているのか、方向性が見えないということであった。川越は、川越敏司(2007; 2011)に見られるように限定合理性の問題を自己の中心的主題としているが、市川惇信(1996)の表現をもちいるならば、まだ可能性の限界の内側にとどまっているように思われる。もちろん、これがたいへんなブレークスルーを必要とすることは分かっているが、そういう飛躍がいま実験経済学や行動ゲーム理論にもとめられているとおもう。

行動心理学は、スキナーのオペラント学説のように、単純な期待効用最大化や反射理論を抜け出ているが7、単純な状況設定のもとに実験を行うという自己束縛を断ち切れていない。心理学が下手に実験科学になってしまったために、人間や動物が実際の生活の中で行っている問題解決を観察するよりも、人工的な単純化された環境のなかで実験することを当然している。

もちろん、実験という以上、統制された状況において再現可能な反応を見つけるというのが常識である。実験状況の適切な統制がなければ、物理学や化学のどんな現象もほとんど再現性は期待できない。しかし、物理学や化学では、実用上、これで構わない。物理学や化学が実用に用いられるときには、統制された環境を作り出して利用するのが標準的な応用であるからである。これに対し、人間は社会の中に生まれ、世界的に結びつけられた巨大なネットワークである経済の中にある。2財や3財の単純な状況の中でどう行動しているかという観察は、1500種類もの商品がならぶコンビニエンス・ストアでの買い物行動に応用することはできない。すでに指摘したように、スーパーマーケットの消費者行動に役立つのは、新古典派の経済理論ではなく、自店の売上データの分析やデータ・マイニングであり、他所で観察される傾向である。

川越敏司(2011)の「プロローグ」には、「経済学においては、物理学のように統制された科学実験は不可能であるといわれてきた。...しかし、ノーベル経済学賞受賞者のヴァーノン・スミスによる開拓的な業績により、実験経済学の方法的基礎が築かれ、経済学においても統制された実験が可能になった。」と書かれている(川越敏司, 2011, p.3)。これは事実であり、実験経済学の出現は、新古典派経済学に多くの反省の機会を与えているという意味で大きな意義をもっているが、それは物理学における黒体輻射や光電効果、スペクトル線のようなインパクトを経済学全体に与えるものとはなっていない。その責任のほとんどは、新古典派の経済学にある。しかし、ギンタスのような(かつては新古典派経済学批判の急先鋒にあった)人たちまでが合理的主体モデルを擁護したいという事実から分かるように、実験経済学・行動経済学の側からの批判の仕方・事実の解釈の仕方にも、いくぶんかの責任がある。

川越敏司(2011)の「プロローグ」の発言を読んでわたしが心配になるのは、実験経済学が実験心理学とおなじような固定化に陥ることである。実験経済学者たちの発言を聞いていると、その心配はかなり強い。わたしを組む数人がU-MART研究(Wikipedia, U-MART; 塩沢由典他, 2006; 喜多一他, 2009; Shiozawa et al. 2008)を始めたとき、それに対する批判としてまずでのが、参加者に報酬をあたえていないという批判であった。われわれの意図は、現実の市場とほぼ同様の複雑さをもちながら、あるていど制御された実験を可能にすることだった[]。U-MARTの市場実験に参加する人たちは、このゲームに勝ちたいという強い意欲を持っていて、それは金銭的な報酬による意欲よりも強いかもしれない。ただ、U-MARTでは、破産しても損害を負担することはない。そのため、現実の市場における取引よりも、参加者が強気ででている傾向は認められる。しかし、実験経済学であっても、失敗したら参加者に一定額を負担させるという実験環境を作ってよいかどうかという倫理的な問題が生じよう。実験経済学は新古典派経済学の世界観からあまり離れることがないので、金銭的報酬の効果のみを過大視している 。

実験経済学がとるべき道は、統制された実験環境という限定された状況に閉じこもるのでなく、実験というものをもっと広義にとらえることであろう。現実の社会を対象としても、ある種の課題においては、実験が可能である。政策実験とか社会実験と呼ばれているものがそれである。

社会実験は、アメリカの社会学の伝統から生まれてきたが、「対照実験をする」という原則にとらわれすぎたために、孤立した個人あるいは家族がどう行動するかという問題には取り組むことができたが、社会全体として、あるいは地域全体として取り組む実験という概念を発展させることができなかったと思われる(塩沢由典, 2007)。これに対し、日本では旭川市長の決断により道路の利用方法を実験的に変えてみるという形の実験がはじまり、銀座の歩行者天国につながった。この伝統が生きて、国土交通省は、多くの社会実験を試みており、その成功のひとつがげんざい各地にみられる「道の駅」である。

社会実験は、現実の生活者を巻き込むものであるだけに、それをやっていいかどうかについては厳しい判断を問われよう。20世紀における共産主義、計画経済の試みは巨大な社会実験であったとも考えられるが、農業政策の失敗によって餓死した人の数だけでも一千万人を超えるといわれ、分かっていたらとうてい始めることのできないものであった。しかし、社会実験は、これから日本ではますます必要なものになると思われる。日本は、明治維新以来、社会制度から学問・思想まで欧米から学び輸入する形で欧米諸国を追いかけてきた。しかし、日本はすでにキャッチアップを終え、みずから新しいものや新しい制度を生み出すことをもとめられている。このようなとき、中央集権的な政治制度ではうまくいかない。日本全体では、影響が大きすぎて決断できない決断できないことの多い。試行錯誤にも向いていない。道州制が必要なのは、国レベルでは不可能な実験をできる体制を作るためである。そのためには、法律を制定する権利(立法権)をもたせるとともに、財政自主権を強化して、無責任体制を防止する必要がある(塩沢由典,2010, 第5章)。

2)は、心理学者や社会学者が陥りやすい傾向で、ギンタス(2011)が非難しているのは、合理的説明が難しいと、すぐにその努力を放棄することに対してであろう。しかし、ギンタス自身がなぜ観測されるよう行動が起こるかについて、論理的な(つまり合理的な)説明を行うことができていないことも確かである。その原因は、ギンタス(2011)が合理性に固執するあまり、合理性の限界、論理的推論の限界を明示的に扱おうとしていないところにある。

3)は、より深刻な問題である。問題自体が認知されていないのであるから、考えようがない。しかし、すでにHeiner(1983)が示しているように、課題のむずかしさと能力のギャップをいかに埋めているかという点に着目すれば、いろいろな方向が見えてくる。経済主体を「複雑な環境における能力に限界をもつ主体」と設定することで、そのような世界の中で人間主体はなにを行っているかという問題意識が生まれる(塩沢由典,1990)。視野や合理性、働きかけの限界の中で、世界の構造をうまく利用することで、一般論ではほとんど不可能とも思える状況において、実行可能な解を見つけている形が見えてくる。そうした理解を進めることこそが、人間の経済行動を理解する道であろう。そうした目から見たとき、動物たちの行動を理解する見方も変わってくるかもしれない。

上で世界の構造を利用するといった。補論でも0-1ルールという関係の構造が動物の行動をたすけているかもしれないと指摘した。人間や動物の知性や認知能力に限界があることに気づけば、世界の構造を利用することによって可能になっている行動という見方もとうぜん生まれてくる。ギブソンの生態学的心理学は、そのような視点から視覚をはじめとする認知と知性を考察している(ギブソン, 1986; 2011; 2011b, 佐々木正人, 1994, 2008)。ギンタス(2011)やグリムシャー(2008)も、こういう視点・問題意識を参考にすぎではないだろうか。これは、人間の経済が多くの人工物(その中には制度も含まれる)によって支えられていることにも関係しているが、その点は次節で議論したい。

4)は、不確実な状況における意図的行動を定式化しようとすると、多くの学者がなぜつねに期待効用を最大化という定式を持ち込むことになるかを説明している。しかし、この点については(5)でもじゅうぶん議論したので、ここでは省略する。

人間の推論能力との関係について、長い議論をしてきた。古典的ゲーム理論、行動ゲーム理論、認識的ゲーム理論、進化ゲーム理論が代表的な4つのゲーム理論である。このうち進化ゲーム理論を除く3理論は「合理的主体モデルなしには意味をもたない」とギンタスは考える(ギンタス,2011, p.333)。だから、合理的主体モデルを弁護したいのだろうが、それが却って行動ゲーム理論、認識的ゲーム理論の理解をゆがめてしまっていることにつき、長い議論を展開してきた。

進化ゲームについては、その起源から合理性や高い知性を前提としたものではない。これについては、ギンタスは、Gintis(2009)に譲ってか、ギンタス(2011)ではほとんどなにも語っていない。しかし、Gintis(2009)を参照してみても、古典的ゲーム理論、行動ゲーム理論、認識的ゲーム理論の他に、なぜ進化ゲームが必要となるのかという説明がない。ただ生物学から現れたゲーム理論の新しい応用領域としてしか位置づけられてしかいない。

進化ゲームが古典的ゲーム理 論、行動ゲーム理論、認識的ゲーム理論と大きく(根本的にといってもよいとおもう)異なるのは、進化ゲームではプレイヤーの知的選択はほとんど仮定されていないということである。進化ゲーム理論での分析課題は、タカやハトの戦略がいかなる結果をもたらすかというものである。それが一種のゲームであることにまちがいないが、進化ゲームでは、プレイヤーが複数の戦略(行動)を選択するのではない。すでに決まっている行動をとり続けるとき、その行動を取る個体群はどのように変化するか、どこまで増殖できるかといったことが中心的な問題である。これだけだと、捕食者と被捕食者の古典的な個体群動学を記述するロトカ・ボルテラ方程式を典型とするように、非線形力学系の理論である。進化ゲームに特徴的なのは、ここに突然変異という概念が加わっていることにある。突然変異の結果、新しい行動をする個体群が現れるとき、ある個体群の状態は安定化が問われる(進化的に安定、ESS)。しかし、行動の変化は、事前の知的選択を前提とするものではない。したがって、進化ゲームは、知性ゼロあるいはひじょうに低い合理性をもつ主体のゲームであり、合理性の限界を認めないギンタス(2011)の立場からいえば、ほんらいのゲーム理論に入らないはずのものである。進化ゲームでは、主体が一貫した選好をもつことも要請されない。なぜなら、このゲームには選好そのものが必要ないからである。

進化ゲーム理論は、分析方法も見ている事象も、古典的ゲーム理論とは大きくことなる。進化ゲーム理論の研究で中核となるのは、個体群動学といったものであり、古典的なゲーム理論で考えられる戦略的選択(相手の出方をみて選択する)というものではない。個体群動学(あるいはレプリケータ・ダイナミックス、個体群動態の数学理論)は、ロトカ・ボルテラ方程式を典型とするように、非線形力学系として研究される(進化経済学学会, 2006, 学説・関連理論をみよ)。これは、すでに個別主体行動和問題とするものではなく、ある社会的な相互関係の研究である。経済学は、じつは個体の行動を理解することにはとどまらない。その意味では、経済学は、行動科学にとどまるものではなく、またそれに還元されるものでもない。

一例を挙げるならば、生態系の安定性問題がある。これを一般的に分析する数学的手法はまだ開発されていないが、部分的にはゼロサムゲーム力学系として研究されている(時田恵一郎, 2006)。ゼロサムゲーム力学系では、利得行列を反対称(aij = - aji)と置くことにより、(多数の種が参加する)大自由度の力学系が分析可能となる。この力学系において、係数aijをランダムに与えると、多種系の個体数動態を表すランダム群集モデルとなる。しかし、(それぞれ特定の戦略をもつ種の)種数Nが大きくなると、すべての種類が0でない個体数比率をもつ内部安定点が存在する確率はきわめて低い。生態学の研究の知見では、「大規模な生態系はその複雑さのゆえに安定に存続している」と考えられているが、この結果はこの知見と矛盾する(生態学のパラドックス)。時田恵一郎(2006)は、これに対するさらに最近の研究を報告しているが、それについてはここでは触れない。ここでこの例を取り上げたのは、個々の行動が偶然的に与えられたとしても、系がある性質を満たすならば、系が特定の振舞いを見せることがあることを強調するためである。これは、個別の主体の行動とはまったく別次元の多くの興味ある課題があることを示している。

行動科学の範囲をどう捉えるかという観点でも、ゲーム理論を理論の核とする研究フログラムには、大きな問題がある。たとえば、ゲーム理論でもいられる「戦略」概念があまりにも特殊である。それを理論の核と捉えるとき、そこには重大な欠落が生ずる。

戦略とはなにか。ゲーム理論では、それは所与の選択肢でしかない。しかし、行動科学としてぜったいに排除することのできない経営学における戦略は、単なる選択肢ではない。

第一に、戦略とは、創発すべきものであり、創作すべきものである。ヘンリ・ミンツバーグは、戦略とは計画するものというより(陶芸のような)創作すべきものだとしている(ミンツバーグ, 2007, 第6章「戦略クラフティング」)。藤本隆宏は、システムの進化にあたって「怪我の功名」「瓢箪から駒」「偶然の悪戯」の果たす役割を強調し、やってみてわかったことを意識的に取り上げて戦略として仕立て上げることが重要としている(藤本隆宏, 1997, 第3章; 1997b; 2003, 第6章)。簡単にいえば、戦略とは発見すべきものである。

もちろん、戦略形成に、計画という側面がないわけではない。ミンツバーグ(2007, p.201)も、「戦略を策定する行為は二本足で進んでいく、すなわちプラニングの足と創発の足である」といっている。しかし、よい戦略を発見することは、複数の選択肢の中から最適な戦略を選択する行為よりも、経営にとって致命的に重要である。ミンツバーグ(2007, p.204)は、有名な例を一つ挙げている。それはホンダがアメリカのオートバイ市場で大成功を収めた経緯である。ホンダがアメリカ市場を攻略しようと考えたとき、最初に採用された戦略は、アメリカ市場に適すると考えられた大型のオートバイを販売することだった。その戦略はあまり成功を収めなかったが、販売システムを構築するために、ホンダの日本人社員は、自分用に乗りなれた小型オートバイを乗り回していた。それをみた近隣の消費者から、あれを買いたいという注文が続出した。そこでアメリカ・ホンダは、自分の会社にとっての正しい戦略とはなにかを発見した。それは小型オートバイを販売することだった(Pascal, 1984)。藤本隆宏も、切羽詰ってやってみた中から、トヨタの大きな戦略は進化してきたと報告している(藤本隆宏, 1997, 第3章; 1997b; 2003, 第6章)。

戦略が発見されるものであり、進化するものであるということは、経営学者が好んで語る単なる教訓ではない。それは、経営行動におけるもっとも重要な思考がどのような性格のものであるかを教えている。経営者あるいはマネジャーが、ひごろいかに短い時間が多くの決定を下していっているかは、博士論文に基づくミンツバーグの最初の仕事『マネジャーの仕事』に詳しい(ミンツバーグ, 1993)。ほとんど反射的に下される決定が習慣的な意思決定であることは明らかだが、それと対極にある慎重な決定も、ギンタス(2011)の想定とはちがい所与の選択肢の中から最適なものを選び出す行為とは相当違うものである。  ギンタス(2011)は、サイモンの満足行動にも異を唱えているが、マネジャーの置かれている状況を考えるにらば、満足行動は、ギンタス(2011)が考える以上に合理的なものである。なぜなら、一日に何百もの決定をこなさなければならないとき、ひとつひとつの意思決定の精度を上げるよりも、ほとんどの決定を一定の水準で慣習的に処理し、少数の重要な案件のみ、より慎重な決定を行なうのが、全体としての成果が高いものとなるからである。ただ、全体としての成果といっても、期待効用理論やゲーム理論が考えるような利得関数はまったく明確でない。マネジャーが実際に行っているのは、目的合理的ではあっても、最適化行動ではないのである。

ギンタス(2011)は、序文の中で、経済学や行動科学にとって大切なのは「数学的美しさ」(厳密さ)でなく、事実であると言っている(序文、p. xvii)。しかし、ギンタス(2011)の400ページに及ぶ本の中に、経済的事実に関連すると思われる言及は、きわめて少ない。§3.3「匿名的な市場取引」には、実際的状況における事実はなく、「実験」結果の紹介におわっている。§4.10「美人投票」、§9.6「スペンスのシグナリング」などは、それぞれケインズとスペンスが現実経済の問題を巻かえるに当たって比喩的にもちいた議論を知っているから、これが経済の事実に関係していると分かるにすぎない。§3.7.「労働市場における強い意味の互恵性」のヒントは労働者の互恵的な行動にあったが、報告は「実験」結果である。わずかに第11章のみ「私的所有権の進化論」が、それ自体として経済学の一課題を扱っているにすぎない。

ギンタス(2011)における事実がほとんど実験室での結果に限られるのはなぜであろうか。ここにギンタス(2011)の研究プログラムの対象と問題設定の狭さがある。ギンタスの考える「行動諸科学」としては、それでよいかもしれないが、それはけっして経済学ではないし、経済学の基礎(中心的核)でもない。ギンタス(2011)では、不思議なことに経営学は行動科学からはまったく無視されているが、もしギンタス(2011)のプログラムにしたがって経営学を組み立てるならば、どういうことになるだろうか。ミンツバーグには『MBAが会社を滅ぼす』(ミンツバーグ, 2006)という著作があるが、ギンタス(2011)を核とするMBAが会社を滅ぼすのはほとんど必然である。

同様のことは、政治学にもいえるかもしれない。政治学が説明としてゲーム理論を用いるのはよいとしても、ゲーム理論によりじっさいの政策が決定されるとしたら、それは危険であるばかりでなく、かなり愚かなことだ(中山智香子, 2010)。


(7)進化経済学の課題

これまでながながとギンタス(2011)およびその関連の主題について語ってきた。しかし、進化経済学会で議論すべきことは、もちろんギンタス(2011)批判では終わらない。より積極的に、進化経済学の全体像について考えなければならない。しかし、進化経済学の全体像をどうかんがえるかということは、わたしにとっても、進化経済学会にとっても、一シンポジウムで扱いきれる問題ではない。ギンタス(2011)やボウルズ(2012未)に触発されるかぎりで、進化経済学としてこんご考えていかなければならないことにやや箇条書き的に触れてこの趣旨説明を終わりにしたい。

経済学・経営学は行動科学か
ギンタス(2011)は、「統合された行動諸科学」が目標とされている。ここで、行動科学として、経済学・経営学を捉えることについて、やや反省的に考えてみよう。 まず第一にいえることは、経済学にとっても、経営学にとっても、行動は、重要ではあるが多くの分析すべき対象の一つでしかない。ギンタス(2011)だけでなく、きんねん人気の行動経済学、実験経済学、行動ゲーム理論、神経経済学 などは、すべて行動に焦点が当てられている。人間行動が難しい対象であること、それを一定の独立した領域として分析することの重要性と可能性を否定しない。しかし、ギンタス(2011)に垣間見られるように、行動を研究していけば、経済や経営、はては社会が分かるといった考え方には同意できない。

『進化経済学ハンドブック』(進化経済学会, 2006)では、編集の予備段階における長い議論を経て、経済において「進化するもの」を商品、技術、行動、制度、組織、システム、知識の7つのカテゴリーにまとめ、それらの相互関係(概説)とともに、事例編では、それぞれの具体例をまとめた。結果として得られたものがじゅうぶん満足できるものかどうか、いまは問わない。このような試みが一度に高い水準で完成するとは考えられない。たとえば、技術の進化については、アーサー(2011)のようなすばらしい考察が生まれてきている。アーサー(2011)は、もちろん、個別技術の進化過程を考察したものではないが、このような分析枠組みが模範として存在するとき、個別技術の進化を分析しやすくなるばかりでなく、一般の水準を押し上げる効果をもつであろう。

制度が進化するという点については、青木昌彦(2001)やボウルズ(2012未)によるゲーム理論を用いた分析がある。歴史研究の成果を制度の安定と不安定の観点から分析したものには、パットナム(2001)やグライフ(2009)がある。いずれもゲーム理論を基礎に分析したものであり、制度や慣習の進化にゲーム理論による分析の有効性が如実に証明されている。これらはより広く、岡崎哲二(1999)などを例とする歴史制度分析という方法にも接続している。進化経済学会の多くの会員も、さまざまな視角と問題意識から制度分析に取り組んでいる。会計学は、じっさいに企業がどう行動しているかという観点からみれば、行動の研究でもあるが、会計規則など(明文で制定されたものを含む)制度ときりはなして研究することはできない。清水耕一(2010)は、フランスの労働時間に関する実証研究から、青木昌彦・奥野正寛(1996)や青木昌彦(2001)が労使関係制度を自生的制度して分析しているのに対し、「団体協約・朗と観教程は法制度ではないにしても、これを自生的制度…とするのはやや落ち着きが悪い」(清水耕一, 2010, pp.357-358.)と批評している。理論と実証研究・歴史研究とのこのような「せめぎあい」は、進化経済学がより豊かで現実の経済に接近したものになるためには必要なものであろう。 

組織は、経営学の主要な研究対象の一つであり、経営学関係の日本の有力学会のひとつは『組織学会』と称されている。システムの代表例をどうとらえるかについては、いろいろな考えがありえようが、多くの人がインターネットに注目している。インターネットは、人工物としてははじめて「進化に開かれたシステム」になった(喜多一, 2006)。商品が経済をかたるのに重要なことはいうまでもない。知識は、人々の行動や技術のつねに背後にあるものである。従来の経済学において、これら7つのカテゴリーがどのように扱われてきたかとは別に、これらが経済を規定する重要なカテゴリーであることは間違いない(他に、もっと別の重要なカテゴリーがあるかも知れないことは、いまは問題にしない)。  『進化経済学ハンドブック』(進化経済学会, 2006)では、進化する7つのカテゴリーは、商品、技術、行動、制度、組織、システム、知識という順序に並べられているが、これが唯一正統なものではけっしてない。『ハンドブック』における順序は、より具体的なものからより抽象的なものへという順位ととともに、それぞれ関連するものを近接させるという方針から付けられたものである。そのため、行動が技術と制度にはさまれる形になった。しかし、もちろん行動、商品、技術、制度、組織、システム、知識と並べ替えることも可能であり、行動 vs. 商品、技術、制度、組織、システム、知識と対比することもできる。こう対比するとき、行動(の解明)のみを経済学あるいは経営学の中心に据えることは、経済や経営の実態を大きくゆがめるものであろう。

進化経済学の領域
では、経済学は、どのような領域と問題を包むべきものであろうか。ただし、ここでは経済学・経営学・会計学などを区分せず、広義の経済学として考えるものとする。

こうした議論の手がかりとなるのがボウルズ(2012)である。この本が『ミクロ経済学』と題されているからである。ミクロ経済学は、主流派経済学においては、経済学の基幹部分、ギンタス(2011)の表現を用いれば、核となる理論が提示される領域である。主流派のミクロ経済学は、しばしば価格理論と呼びかえられるように、価格がいかに形成され、それを中心に人々の行動や生産・消費などが分析される。これに対し、ボウルズ(2012)では、価格がいかに決まるかの一般理論はいっさい出てこない。特定の賃金や報酬(これも広義の価格にはちがいない)がどのように決まるか、あるいはどのように決まれば人々の厚生が高まるかといった議論はある。ボウルズ(2012)の特徴は、これらの数量を対立を調整する制度として捉え、どのように制度設計すれば、抜け駆けや制度の崩壊を招くことなく維持されるものになるのかを、主として(進化ゲームを含む)古典的ゲーム理論を用いて分析したことにある。

ボウルズ(2012)は、進化経済学会にとって、今後の資産とすべき研究成果である。しかし、ボウルズ(2012)がいわゆる価格理論を欠くことの意味を考えてみる必要がある。これはボウルズ(2012)飲みでなく、進化経済学会の生み出した最近の労作である西部忠・吉田雅明(2010)についてもいえる。これは進化経済学の入門的教科書を目指したものであるが、価格理論を欠いている。

ボウルズ(2012)も西部・吉田(2010)も、明確な自覚をもってこうしたのであろうが、そのような選択は妥当であろうか。ボウルズ(2012)は大学院向けあるいは専門家向けの単著であり、ここにすべてを盛り込むことは要請されていない。しかし、『ミクロ経済学』と題する著書を価格理論なしに提示することの意味はどういうものになろうか。ひとつの解釈は、価格理論に代替する新しい理論領域が提示されたので、新古典派の価格理論はおのずと衰退し、自然消滅するので、あえて価格理論について触れなかったというものである。もうひとつの解釈は、価格理論の骨格は従来の価格理論(つまり新古典派の価格理論)によって尽くされていると考えて、あえて標準的理論に触れなかったというものである。ボウルズ(2012)を読む限り、どうも後者の解釈がとられているようである。すでに(2)の最後に注記したように、ボウルズ(2012)においても、ポスト・ワルラス的社会科学という構想が示されているからである。西部・吉田(2010)の場合、こうした判断はないと思われるが、教科書としてなにも語らないということは、けっきょくは大勢としての新古典派価格理論が学生たちの思考の前提となるであろう。

このような態度は、正しいだろうか。もちろん、それは自己の経済学をどう考えるか依存するが、わたしのようにアロー・ドブルー理論を典型とする新古典派一般均衡理論を根底から誤ったものとして批判してきたものからすれば、このような譲歩は大きな間違いと思える。この点からいえば、やや遅れておなじように学生向けの進化経済学教科書として出版された谷口和久(2011)の方が、進化経済学の全体像をよく示している。西部・吉田(2010)が生産も価格も語らないのに対し、谷口和久(2011)は、生産の定式化も価格がいかに決まるかについて、コンパクトながらよく全体像を示している。

新古典派の価格理論を批判するが、それに代替する(あるいは代替しようとする)理論を提起しないかぎり、語り残された理論領域では主流の理論を実質的に受容することになる。それは、けっきょく、ひとびとが新古典派の枠組みで思考しつづける状況を作りだしている。これはボウルズ(2012)が『ミクロ経済学』の教科書として抱えるもっとも大きな問題である。

経済とはなにか
では、経済学(とくに進化経済学)が何であり、なにを研究すべきであろうか。ギンタス(2011)には欠けている経済が大規模なネットワークであるということが、手掛かりになるであろう。経済という大規模なシステム/ネットワークがどのようにうまく働くのか。これが古典経済学の時代から追究されてきた経済学の伝統的課題である。

ボウルズ(2012未)には、こういう意識が欠けているとは思われないが、ゲーム理論を用いるという分析上の制約から、大規模システムがなぜそこそこうまく機能しているのかについてはいっさい説明がない。ワルラスの一般均衡理論も、アローとドブルーの均衡理論も、これをなんとか説明しようとする試みだった。しかし、ギンタス(2011)もボウルズ(2012未)も、ワルラスあるいはアローとドブルーを超える構想は示しておらず、むしろそれらを受け入れる方向に傾いている。

既存の経済学に対する疑問/留保としてギンタス(2011)が示しているのは「この惨憺たる状態に対する私の反応は、経済は複雑な非線形力学系であるという考えを基礎にして、一般的交換に関するエージェント・ベースド・モデルが高い水準の安定性と効率性を示すというものである」(Gintis, 2011, pp.358-359)という考えである。しかし、この評価は、なぜエージェント・ベースのシミュレーションが必要となるかについての十分な反省のないままになされている。サンタフェ流の複雑系の考えに依存しているからであろう。これは塩沢由典(1997, 第1章), 出口弘(2000), 武田英明・和泉潔・喜多一編(2000)の諸論文・座談会等に示されている問題意識とかけ離れたものである。その原因のひとつは、なんとも繰り返すことになるが、(証明や計算を含む)合理性の限界をギンタス(2011)が否定することにあろう。

人工物という視点
経済という大規模システムがなぜ機能するか。この巨大なシステムの中で、限定された推論能力しかもたない人間は、なぜそこそこうまく行動できるのか。こういう問題を立てるとき、われわれは人間の推論能力・思考能力にのみ頼って考えてはならないだろう。すでに(6)「ゲーム理論とその周辺」において、われわれは世界の構造に助けられて行動できているのではないかという考えを提示しておいた。この延長に、経済という大規模システムの作動を可能にしているものとして人工物という概念を提示したい。  人工物ととうと、人間の作りだした物ののみが想定されやすいが、制度やことばなど無形のものも、人工物である(吉川弘之, 1992; サイモン, 1999; 奥野正寛・瀧澤弘和・渡邊泰典, 2007; 瀧澤弘和, 2011)。この人工物には、さらにカール・ポパーのいう「世界3」の概念を包むものと考えるべきであろう(ポパー, 2004, 第3章・第4章)。

経済過程を支える最大の人工物は貨幣であろう。貨幣が購買を可能にし、交換過程は貨幣により進行する。貨幣(手持ち現金)は、また、人々の予算制約式として、計算しようとしまいと作用している。経済全体の有効需要を定めるのも、簡単にいえば貨幣である。

経済に重要な進化する7つのカテゴリーのうち、行動を除く6つのカテゴリー、商品、技術、制度、組織、システム、知識はすべて人工物である。人間の行動は、意識するとしないにかかわらず、こうした人工物に支えられて可能になっている。世界3という考え方によれば、計算も人工物であり、価格による等価交換も、人工物に助けられている。

こう考えるとき、経済システムの研究として、人工物の研究が重大な課題として浮かび上がってくる。このような視点は、ギンタス(2011)にはまったくみられない。経済学(あるいは経営学)を行動科学のみの視点から考えることには、大きな欠落がある。

複雑さと進化
経済学一般というのでなく、進化経済学/進化経営学という観点からは、これら人工物がなぜすべて進化するものとして捉えられるかが問題となる。7つのカテゴリーがすべて進化するものであり、それらがすべて経済において重要なカテゴリーであることが、進化経済学が新古典派経済学(やはては古典派経済学)に対する進化経済学の優れたところである。そうとすれば、これらすべてが、なぜ進化するものとして捉えられるのか、進化するものの条件とはなにかが問題となる。

これについては「普遍ダーウィン主義」(Universal Darwinism)といった考え方もありえるが、それはいささか形而上学的あるいはイデオロギー的である 。わたしは、人工物が進化するのは、それらが複雑さをもっているからと考えている(塩沢由典, 2004; 2006)。

行動はなぜ進化する存在なのか。それが最大化ないし最適化された結果ではないからである。行動がつねに最適化されているなら、目的と環境が変化しないがきり、行動は変化しえない。しかし、人々の世界モデル(塩沢由典, 1997, §1.2)を含めて、人々の認識が変化し、経験が変化し、自発的な模索活動から、行動は進化する。

行動以外の人工物も、商品のような小さな対象から、システム・知識のような、巨大な対象まで、すべて実質的な最適化を許さない複雑さをもっているがゆえに、進化する存在なのである。ハイエクなどオーストリア学派が、スコットランド啓蒙に学んで、人間行為の結果ではあるが、人間がデザインしたものではないもの(たとえば、貨幣)を強調したが、商品や組織、システムのように部分的に人間がデザイン・設計したものであっても、それらは実現可能解として優れたものであって、けっして最適化されたものではない。

経済学教育
最初に2000年以降、学生たちの経済学教育に対する不満が表出していることを紹介した。あたらしい経済学の構築を狙う進化経済学と進化経済学会にとって、どのような教育体系を用意していくかは、大きな課題である。

進化経済学という学問の立場からいうなら、まずそれに体系的に導入するための教科書作りが大切である。その意味では、西部忠・吉田雅明(2010)や谷口和久(2011)の試みは高く買うべきである。進化経済学の全体像との関連で、西部忠・吉田雅明(2010)にやや苦情を呈したが、まずは教科書を書いてみる、作ってみるという試みがかぎりなく重要である。そして、できてきた教科書については、さまざまな機会を設けて意見や感想を出し合い、次第にバランスの取れた、よい教科書を作っていくことが求められる。西部忠・吉田雅明(2010)や谷口和久(2011)を凌駕する次の教科書が埋まることを期待したい。

進化経済学を全体の教育体系のどこに位置づけるかという問題もある。これは、経済学部と商学部・経営学部とではとうぜん異なるであろうし、法学部や理系学部における単一科目して経済学を教える場合でも大いに異なる。しかし、ここでは、まずは標準として、経済学部と大学院経済学研究科における経済学の教育体系を考えたい。

日本の学士課程教育が大きな問題をはらんでいる。4年生の教育でありながら、就職活動のため実質3年の課程教育になっている現実がある。進化経済学の立場からは、公務員試験などでミクロ経済学・マクロ経済学が試験科目になっているため、それらの科目の標準的内容を教えざるをえない事情もある。しかし、アメリカ合衆国での標準的教育体系に比べれば、かつてのマルクス経済学系の科目が政治経済学とか社会経済学、あるいは経済原論などの名前ですこしずつ内容を変えつつ残っているというよさもある。また、日本では 伝統的に学説史が重視されてきたため、標準的なミクロ経済学・マクロ経済学以外の経済理論・経済思想について、いちおうは触れる機会も確保されているといえる。

これらは日本の現状の経済学教育のよい側面であろうが、他方、標準的なミクロ経済学・マクロ経済学もまともに理解して卒業していないという現実もある。そもそも理学部・工学部を除けば、経済学部がもっとも高度ではば広い数学知識を必要としているにもかかわらず、医学部・農学部などよりもじゅうぶんな数学教育時間を取れていない。そのため、かなりの学生が数学の基礎知識なしに経済学を学んでいるのが実態である。

ギンタス(2011)やボウルズ(2012未)をまつまでもなく、経済学的思考の中にゲーム理論が含まれるべきであることは否定できない。問題は、それをどのような形で可能にするかにある。経済学の準備教育として、微分積分学と線形代数、統計学が教えられているが、それに加えてゲーム理論を教えるとなると、ゲーム理論じたいの内容も問題ではあるが、それを教える時間枠をいかに確保するかが大きな問題である。

日本では経済学教育は4年の学士課程教育でじゅうぶんということになっているが、そろそろ理学部・工学部・医学部と同じように、修士課程を含む6年制教育も考えなければなないかもしれない。もちろん、経済学を就職後の業務に生かせる人はそう多くない。しかし、しっかりした経済学の素養をもった人間が社会の各方面にいることが民主主義社会にとっては大切である。キャッチアップの終わった日本における企業や社会の活性化のためには、既成の諸概念を使いこなすと同時に、必要に応じて新しい概念体系を作りだせる人材の育成が欠かせない。また、すでに20年に及ぶ経済的停滞を続けている日本では、新しい理論体系をも構想・構築できる人材の養成も必要である。こうしたことを考えると、経済学・経営学教育の6年制教育化が緊急の課題である。

もちろん、大学院重点化政策の失敗により、修士課程・博士課程へ進学する日本人学生が少なくなってきてしまっている現状もある。しかし、工学部がすでに1960年代から時間をかけて6年制教育化を社会に認めさせてきた歴史がある。そのような経験を参考にしながら、社会に対し、もうすこし充実した経済学教育が必要であることを説得さしていくべきであろう。こういう努力なしに、科目数を増やすだけでは、学生の消化不良と科目選択の偏りを招くだけであろう。

進化経済学としては、学士課程の教科書づくりとともに、6年制教育への移行努力とともに、少数ではあれ、進化経済学の博士課程コースを開設していかなければならない。その内容つくり・体系づくりも進化経済学の今後の発展のために欠かすことのできない課題である。こうしたとき、進化経済学・進化経営学が、経済政策や企業経営に対し、新古典派経済学を凌駕するどんな知見を提示できるかが問われる。

キャッチアップ時代を終え、少子高齢化など、世界の最先端の課題を抱えるに日本社会や日本企業に、それぞれの立場からいかなるメッセージを発することができるだろうか。山田鋭夫(2011)は、さまざまな資本主義の存在を指摘したあとで、「資本主義類型のあり方が比較優位産業を規定する」という見方を提出している。これは、藤本隆宏(2003; 2004)が「能力構築競争」という概念で提起していることと通底するものがある。野中郁次郎(1985)は、企業を臣下する立場から捉えた経営学として古典的である。さらに言えば、それらは、進化経済学の一領域とも言いうる一国あるいは地域のイノべーション・システム(NSIおよびRIS)に関する考察、比較制度分析の問題意識とも密接につながっている。経済の分析だけでなく、それらの知見を経済社会や企業・産業を導く指針として提示していくことが重要であろう。


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塩沢由典(1999)「ミクロ・マクロ・ループについて」『経済論争』164(5), 1-73.
塩沢由典(2002)『マルクスの遺産』藤原書店。
塩沢由典(2004)「複雑系経済学の現在」塩沢由典責任編集『経済学の現在(1)』日本経済評論社、第2章、p.54-125.
塩沢由典(2006)「概説」進化経済学会(2006) pp.3-134.
塩沢由典(2007)「社会科学における実験という方法」『同志社大学ヒューマン・セキュリティ研究センター年報』(4): 100-145.
塩沢由典(2009)「経済学の現状打破に数学はどう関係するか」『経済理論』46(3), 41-51.
塩沢由典(2009b)「貿易理論/原理と証拠の乖離をどう理解するか」第68回日本国際経済学会(第13分科会)、2009年10月18日、中央大学。
塩沢由典(2010)『関西経済論/原理と課題』晃洋書房。
塩沢由典(2011)「ケインズの構想と古典派価値論」ケインズ学会第1回大会報告論文(2011年12月3日上智大学)
塩沢由典・中島義裕・松井啓之・小山友介・谷口和久・橋本文彦(2006)『人工市場で学ぶマーケットメカニズム/U-Mart経済学編』共立出版。
塩沢由典・中村八束(1985)「量子論理上のケインズ確率論」『経済学雑誌』85(5): 1-38.柴田徳太郎(2009)『資本主義の暴走をいかに抑えるか』筑摩書房(ちくま新書)。
ジェイコブズ、J.(1998)『市場の倫理・統治の倫理』香西泰訳、日本経済新聞社。
清水耕一(2010)『労働時間の政治経済学』名古屋大学出版会。
進化経済学会(2006)『進化経済学ハンドブック』共立出版。
スラッファ, P. (1978)『商品による商品の生産』菱山泉・山下博訳、有斐閣。復刊。
瀧澤弘和(2011)「進化経済学ミニ・シンポジウム/コメント」2011年7月9日、進化経済学会非線形研究部会。
武田英明・和泉潔・喜多一編(2000)特集「人工市場」(序文1、論文6、座談会1)『人工知能学会』15(6): 940-989.
谷口和久(2011)『生産と市場の進化経済学』共立出版。
出口弘(2000)『複雑系としての経済学』日科技連出版社。
時田恵一郎(2006)「ゼロサムゲーム力学系」進化経済学会(2006), pp.281-285.
中山康雄(2011)『規範とゲーム』勁草書房。
西部忠・吉田雅明(編集代表)(2010)『進化経済学 基礎』日本経済評論社。
ネルソン、R.R、ウィンター、S.G (2007)『経済変動の進化理論』後藤晃・角南篤・田中辰雄、慶応技術大学出版会。
パットナム、R.D.(2001)『哲学する民主主義』河田潤一訳、NTT出版。
藤本隆宏(1997)『生産システムの進化論』有斐閣。
藤本隆宏(1997b)「実証経済学の方法」進化経済学会・塩沢由典編『方法としての進化』シュプリンガー・フェアラーク東京、第2章、pp.51-84.
藤本隆宏(2003)『能力構築競争』中公新書。
藤本隆宏(2004)『日本のもの造り哲学』日本経済新聞社。
ポパー, カール, R. (2004)『客観的知識―進化論的アプローチ』森博訳、木琢社。
ボウルズ(2012予)『ミクロ経済学/行動・制度・進化』磯谷明徳・植村博恭・塩沢由典訳、NTT出版。
中山智香子(2010)『経済戦争の理論』勁草書房。
野中郁次郎(1985)『企業進化論』日本経済新聞社。日経ビジネス人文庫、2002.
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西部忠・吉田雅明(編集代表)(2010)『進化経済学 基礎』日本経済評論社。
ノイマン, J. von, とO. モルゲンシュテルン(2009)『ゲームの理論と経済行動』T, U, 銀林浩・橋本和美・宮本敏雄訳、筑摩学芸文庫。
マー, テビツジ (1987)『ビジョン―視覚の計算理論と脳内表現』乾敏郎・安藤広志訳、産業図書。原著は1982.
丸山眞男(1952; 新装版1983)『日本政治思想史研究』東京大学出版会。
ミンスキー, M.とS.パパート(1993)『パーセプトロン』改訂版、中野馨・阪口豊訳、 パーソナルメディア。原著は1969.
ミンツバーグ, H. (1997)『マネジャーの仕事』奥村哲史・須貝栄訳、白桃書房。
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ラメルハート, D.E.,マクレランド, J.L., PDF研究グループ(1989)『PDPモデル―認知科学とニューロン回路網の探索』甘利俊一訳、産業図書。
ロンバート, T. J.(2000)『ギブソンの生態学的心理学/その哲学的・科学史的背景』古崎敬・河野哲也・境敦史訳、勁草書房。
山田鋭夫(2011)「さまざまな資本主義」平井俊顕編『どうなる私たちの資本主義』上智大学出版。
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