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複雑系経済学


新古典派の経済学は、人間の経済行動を最適化を行うもとして定式化してきた。しかし、人間の能力は視野・合理性・働きかけの3つの限界の下にあり、実質的に最適化することは、不可能である(限定合理性)。複雑系経済学は、人間能力のこのような条件を考慮に入れ、経済学をその基礎から再構築しようとする試みである。

複雑系経済学の基本的な枠組みは、新古典派経済学との比較において見るのが簡単である。新古典派経済学は、理論枠組みの基礎に最適化と均衡とをおいている。複雑系経済学は、人間行動における最適化の定式と、システムの作動に関する均衡の枠組みとの双方を否定し、経済行為を時間的な経過をもつ過程の中に捉える。その過程は、諸変数がつねに変化しつつも、さまざまな特長的な繰り返し(タクト時間、日、週、月、年、景気循環)の中にあるという意味で「ゆらぎのある定常過程」であり、経済行為は、この中で不可逆的に選択されている。均衡は、ひとびとがこれ以上の変化を望まない状態であるが、現実の経済においては、ひとびとはつねに「しまった」と思いながら行動している。複雑系経済学が捉えようとしているのは、時間の中におけるこのような人間行動であり、それらが引き起こすマクロの経済現象である。

3つの限界の下ある人間にとって、将来はつねに不確実であり、みずからの行動を最適化することはできない。しかし、彼または彼女がその行動を改善し、よりよい結果を得ようとすることは可能であり、つねに試みられている。その基礎は、経済過程に見られる繰り返しの構造であり、経済行動は、その一定のパタンを発見して、適切に働きかけるという構造をとる。一般には、これは「aならば、b」という形式をとる。条件aが成立するとき、行為bを行う。このような行動形式な単純であるが、内部状態を考慮することにより、任意のプログラム行動もこのような単純な行動の複合と見ることができる。人間は、このような定型行動を多数持ち合わせており(レパートリー)、特定の状況おいて特定の行為を行うと定式化できる。定型行動のレパートリーは、学習・発見・伝達など知識の獲得によって変化し、複数の定型行動が競合する場合には、行動の進化が見られる(進化経済学、遺伝的アルゴリズム)。

複雑系経済学は、参加諸主体がそれぞれの行動レパートリーを持つとき、時間の進行によってどのような過程が生まれるかを分析することにある。このとき、重要になるのが、ミクロ・マクロ・ループの考え方である。個々の行為主体は、それぞれの経験や知識に基づいて固有の行動レパートリーをもっている。経済では、その中からある行動が選びだされて、それらの相互作用から経済過程が形成される(ミクロからマクロへの作用)。しかし、ひとつの行動が引き続き選択されつづけるためには、経済の全体過程に照らして、その行動が他の行動に置き換えられないことが必要である(ミクロからマクロへの作用)。経済の全体過程には、このようにミクロがマクロを、マクロがミクロを条件付けている関係が見られる。これが経済のミクロ・マクロ・ループである。このループ関係は、経済過程を現状に維持するようにも、累積的変化を引き起こしてそれを破壊するようにも作用するが、個々の主体の行動と全体過程のあいだにはこのような相互依存関係が存在している。この関係に注目するとき、方法論的原子論も方法論的全体論も不十分であると言わなければならない。

複雑系経済学が分析しようとする経済過程は、多くの場合、微分方程式を解くなどの古典的な数学解析に頼ることはできない。多数の経済主体が、それぞれの状況に応じてその行為を行うためであり、ある状況における行動が簡単なものであっても、それらが全体として作り出す過程は、複雑なものとなる。そのため、このような過程を分析するにふさわしい適切な分析方法が開発されなければならない。そのひとつが、マルチ・エージェント・モデルによる分析である。それは、単純な行動を行う多数の経済主体を考え、それらをコンピュータの中で模擬的に動かすことにより、実際の世界でどのような事態が生ずるかを推定しようとする。多主体・多段階の分析であり、古典的な数学解析には適さないが、コンピュータでは容易に多くのシミュレーションを行うことができる。現に、このような方法により、株価指数の先物市場や為替市場の研究が進んでおり、経済物理学が発見したと類似の性質をもつ価格変化が観察されている。

参考書 塩沢由典、複雑系経済学入門、1997.
(塩沢由典)



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