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複雑系経済学

塩沢由典

経済学に新しい枠組みと方法を提起する

塩沢由典 



「複雑系経済学/経済学に新しい枠組みと方法を提起する」『新版 経済学がわかる』(Aera Mook)朝日新聞社、2004年5月、63-66頁。

Q1 どんな学問か
Q2 目下のテーマは
コラム「わたしが気になる経済トピック」
著者紹介




Q1 どんな学問か

 「複雑系」は、21世紀の科学を予感させるものとして、数学や物理学、化学の他、工学やコンピュータ科学、認知科学など、多方面で注目されている。それらは、これまでの科学の単純な延長線上にあるものではない。これまでの方法が限界にぶつかって複雑系の考え方が生まれてきた。そのメッセージのひとつは「数学的分析の限界」である。  経済学は、1870年代の新古典派革命以降、問題を数学的に定式化することでその学問を発展させてきた。その結果、経済学は、社会科学の女王とまでいわれる精緻さを獲得した。しかし、それは、数学化できることだけが研究され、数学に載らないことは理論とみなされないという弊害を生んだ。

 この弊害は、じつは経済学の基礎の基礎にある理論枠組みにまで及んでいる。新古典派経済学の理論枠組みは、均衡と最大化の二つである。この枠組みに問題があることはすでに1970年代に有力な経済学者たちが指摘している。しかし、その枠組みを離れたら、理論的な分析ができなくなる。そういう恐れのために旧い枠組みが維持されてきた。

 たとえば、需要供給均衡という枠組みを維持するために必要な、規模にかんする収穫逓減という非現実的な仮説がある。企業で普通に観察されるのは、規模に関する収穫一定ないし逓増である。しかし、この仮定では価格を独立変数とする供給関数が定義できない。ならば供給関数を捨てようとなってよい筈だが、現実には理論の保守性が働く。理論の枠組みを守るため、さまざまな言い訳がなされ、事実が隠されてきた。

 均衡という枠組みに押さえ込もうとするために、経済学には多くの困難が生じている。これは「科学革命」を要求する事態である。複雑系経済学は、経済学における科学革命を新しい方法と視野を提示することで実現しようとしている。一言でいえば、それは「均衡分析から過程分析への転換」である。

 こうした提案は、昔からあったが、市場取引のような複雑な相互作用を時間の経過を追って分析することは無理であった。しかし、煩雑な計算も、コンピュータにやらせれば問題はない。高速で安価なパソコンのおかげて、これまで手の届かなかった分析ができるようになった。Multi-Agent Simulation(多主体シミュレーション、MAS)などと総称される分析方法がそれである。人工金融市場を作り、現実の市場過程と比較するなどの研究も進められている。複雑系経済学は、こうした新しい方法を提起するとともに、経済学の理論的枠組みの組み換えを提案している。


Q2 目下のテーマは

 多くの研究者たちと共同でU−Mart計画を進めている。これはJ30という株価指数の先物市場を勝手に作り、その性質を研究しようとするものである。グラフィック・インターフェースをとおして、人間が売り買いすることもできる。プログラムを組み込んでパソコンに売買させることもできる。証券会社のやっている仮想売買ゲームと同じようなものだが、本質的に違うところがある。仮想ゲームでは、どんな売買をしようと価格は現実市場で決められる。U−Martでは、参加者の行動によって先物価格が変化する

 生身の人間が参加できるという意味では、U−Martは、広い意味での実験経済学に入る。実験経済学は、これまで所与の状況において人間がどのように判断するかという側面に注目してきたが、U−Martでは実時間の中で進行する動的市場における人間の反応を研究できる。

 この計画は、経済学者と工学者の協力とチームワークで進められている。これまで研究者の主力は、どちらかというと工学者たちであった。数十人が簡単に参加できるような市場サーバと取引インタフェースを作るのは簡単ではないからである。出来上がったシステムは研究のために公開されている。すでに10校以上の大学で実験が試みられている。近く個人でも使えるキット付きの本が発売される予定だ。

 現在、わたしが一番興味をもっているのは、「薄い市場」の研究である。新聞の証券欄で大阪証券取引所を見ると、ほとんどの銘柄で取引が気配で終わっている。売りたいひと、買いたい人がいても、現実には売買が成立していない。こうした薄い市場で、すぐに取引が成立するようになれば、市場運営の大きな革新となる。

 U−Martでは、あえて薄い市場を作りだすことができる。マーケットメーカの導入は市場の成約率を高めるか。成約までの時間を短縮するか。こうした比較制度的な研究に成功すれば、薄い市場の流動性を高められるかもしれない。それは大阪証券取引所にかぎらず、世界の多くの小さな取引所にとっての朗報となろう。いままで不可能であった多くの商品の上場も可能になる。社会運営の技術として経済学が市場設計に貢献できるかもしれない。

U−Martの実験風景(図1)
U−Martの売買画面(図2)
U−Martの値動き(図3)

コラム

「{わたしが気になる経済トピック」 インフレとデフレ

 日本は長いデフレーション状態にある。1から2パーセント程度のデフレが1998年以来、もう数年も続いている。1970年代に経済学をはじめた人間にとって、これはきわめて不思議な状況である。この時代、あるいは戦後ずっと、日本は今からみればかなり高率のインフレに悩まされていた。世界の多くの国でもインフレが続いていた。それが普通のことで、日本がデフレを経験するなどとは思いもよらなかった。なぜ、いま世界的に物価が安定しているのか。なぜ、いくつかの国ではデフレなのか。こうした状況をもたらしている原因はなんなのか。それが気になっている。

 デフレが止めば、すべてが良くなるといった言論も見られるが、わたしには信じられない。いま程度のデフレは、経済を健康体にするにはかえってよい効果をもたらしている。原価引き下げなど努力の結果が分かりやすく価格に反映される。弱いインフレでも、それは不可能だ。


Shiozawa Yoshinori

大阪市立大学大学院創造都市研究科教授・研究科長。一九四三年長野県生まれ。京都大学大学院理学研究科修士課程修了。著書に『市場の秩序学/反均衡から複雑系へ』(サントリー学芸賞受賞)『複雑さの帰結』『複雑系経済学入門』『マルクスの遺産』など。



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