先 行 理 論 の 乗り 越 え 方
−−レギュラシオン理論の方法論批判−−

塩 沢 由 典


執筆の経緯

1994年1月8日の大阪市立大学企画講座「レギュラシオン理論」および同1月10-13日の和歌山大学大学院特殊講義で話したことの一部を1994年の夏にまとめたもの。この草稿をもとに1995年2月11日、東京早稲田の藤原書店でR.Boyerと対談したが、結局、発表に至らなかった。


1.レギュラシオン理論の出発点
2.1968年フランスの知的状況
3.構造主義とマルクス主義
4.レギュラシオン派のアルチュセール批判
5.出口としてのブルデュー
6.先行理論の兆候的読み
7.レギュラシオン批判:総括

参考文献



1.レギュラシオン理論の出発点

ひとの出発点は偶然によって選ばれる。学問・思想においても、それはおなじである。ある個人の学問的出発点そのものを問うことには、あまり意味がない。それはおおいに偶然の産物だからだ。しかし、ひとがその出発点から離れようとするとき、その離れ方には責任が生ずる。どのように離れるか、ひとは選ぶことができるからだ。

ひとつの理論・学派の出発点も、ふつう幾つかの先行理論からの離脱ないしそれへの対決としてしるされる。この離脱・対決がいかに行われたか。これは学派の最初の意識的選択であり、それは将来にわたって学派とその理論の生成・発展を条件付ける。このことは、

レギュラシオン理論の場合に、とくによく当てはまる。R.ボワイエの整理によれば、レギュラシオン理論は、一枚岩の理論ではなく、内部に相違や対立を含むが、その一致点は以下の4点にある(ボワイエ、1989、p.256)。

(1)一般均衡の問題設定を拒否すること。
(2)構造主義的マルクス主義の分析における再生産の概念を称揚するとともに、その 貧困さを指摘すること。
(3)資本主義の社会的諸形態のうちに歴史的時間と変化を導入し、また資本主義の短 中期的な動的調節様式を導入しようとする意志。
(4)媒介諸概念の作成という理論的作業と諸調整の時期区分との連結。
すぐ分かるように、最初の二つは、理論の出発点における対決および離脱に関係しており、現在もそれらが学派の統一をもたらす重要な要素となっている。


レギュラシオン理論の位置

方法論的個人主義 ━━━━━━対立━━━━━━━━━ 構造主義

拒否 離脱
レギュラシオン理論


レギュラシオン理論の出発点は、新古典派一般均衡理論の拒否と構造主義からの離脱とによって位置付けらる。前者は、いうまでもなく、20世紀の経済学の主流であり、方法論的個人主義に立脚している。後者は60年代後半のフランス哲学を席巻した思想であった。それはマルクス主義・実存主義にかわる新しい思考体系として世界的にも注目され、日本やアメリカ合衆国などにもおおきな影響を残した。1970年代のフランスで経済学者が何らかの思想的営為を行おうとするなら、この両者にたいしある位置を取ることは必然だった。

かれらは、構造主義と方法論的個人主義にたいし、距離を取った。一方の拒絶、他方からの離脱が、かれらの位置の取り方だった。かれらの拒否と離脱の対象の選択そのものは、いわば状況が強制したものであり、そのことにとくべつの意義があるわけではない。しかし、そこからどう離れたか、いかに対決したかは、レギュラシオン理論の方法を形成する重要なモーメント(瞬間=契機)であつた。それは現在にいたるまで、その方法論を規定するものとなっている。

以下では、しばらく、理論の生成期において、将来のレギュラシオニストたちが先行理論にいかに対決し、いかにして自己を確立しようとしたか見ていこう。レギュラシオン理論の方法論の問題点は、その対決の仕方・別れ方にすでに特徴的に現れている。

レギュラシオン理論ないしレギュラシオン・アプローチの対決の対象は、一般均衡理論であった。この対決は、主流の新古典派経済学に不満をもつものにとって、いわば避けて通れない問題だった。一般均衡理論が新古典派経済学の基礎をなすとかんがえられていたからである。しかし、一般均衡理論にたいする明白な拒否の宣言(アグリエッタ、1989、pp.29-35:ボワイエ、1989、pp.148-9)が存在する割りには、レギュラシオンの理論家たちが一般均衡理論をいかに批判し、それを乗り越えようとしたか、明白ではない。そのような文書がどこかに存在するかもしれない。だが、すでに日本語にも訳されたおおくの著作のなかにその批判は反映されていない。ボワイエは、アグリエッタやA.オルレアンが「一般均衡理論と同じくらい自明で厳密な代替枠組を構築しようとしている」と証言している(ボワイエ、同)。しかし、そのような理論の存在は確認されていない。アグリエッタは、一般均衡理論を正面からとりあげて論評している。それが還元主義的方法に基づいているという以外には、その批判はイデオロギー機能について触れるだけである。かれは均衡理論に代えて再生産の概念が必要という。しかし、なぜそれが必要なのか説明していない。ボワイエが新古典派を取り上げるときは、それは一般均衡といった理論の基礎にある枠組みではなく、M.フリードマンであり、R.E.ルーカスやJ.サージェントであり、アザリアデスやスティグリッツである(ボワイエ、1989、pp.24-29:1990、pp.135)。

これらは近年、経済学の話題を賑わわせた人ではあるが、かれらの経済学は新古典派経済学の派生体でしかない。かれらを批判することによっては、その本体である一般均衡理論はびくともしない。しかし、どうもボワイエには、理論の基礎に降り立って、その土俵の上で四つに組んでみるという習慣をもたないようだ。

このように、レギュラシオン理論は、一般均衡理論を拒否するのではあるが、それとの対決に力を入れていない。後に見るように、レギュラシオン派の主張は、構造主義においては機能の担い手に過ぎなかった人間の行動を明示的に取り入れることにある。しかし、それが(効用最大化を典型とする)新古典派主体均衡理論とどのように差別化されるのか、

一向に明白でない。かれらはブルデューの概念をかりて、ハビトゥスやプラティークについて語る。だが、それは理論的な概念構成の試みではない。比喩として語られているにすぎない。均衡理論の批判が不十分なために、このような事態を招いているのではないのか。

かれらは、一般均衡理論を批判するが、それが占める場所はそのままに明け渡している。それに代わるべき理論をかれらは提出しようとしてしない。このような不徹底が、理論の不在を生んでいるようにわたしには思われる。しかし、そのような結論を導く以前に、かれらのより重要な位置の取り方であった、アルチュセールの構造主義にたいし、かれらがいかにそれに反発し、拒否し、離脱しようとしたか、見ておかねばならない。

目次


2.1968年フランスの知的状況

レギュラシオン理論の出発点は、比較的明確なものである。それは1970年代のフランス(とくにパリ)で、若い経済学者たちの理論的討論として始まった。この討論への参加者のおおくは「68年世代」、すなわち1968年 5月の事態によって、自己の政治意識を開花させたひとびとだった。かれらはここでマルクス主義の洗礼を受け、社会の改革派ないし左派となった。最初の討論の材料となったのは、ミシェル・アルグリエッタの学位論文だった。その討論を通じて、ひとつの共通な問題意識が生まれた。もっとも特徴的な概念として「調整」=「レギュラシオン」が選ばれ、その問題意識は、レギュラシオン理論ないしレギュラシオン・アプローチと呼ばれるようになった。この概念は、アグリエッタの最初の論文には存在せず、アグリエッタより若いボワイエやリピエッツの提起したものといわれる(海老塚・小倉、1991、p.131)。

1968年からすでに四半世紀たっている。1968年は、ある世代の人間にとって特別な年であった。日本では、それは東大闘争・日大闘争を中心とする大学闘争の年である。66年に始まった中国の文化大革命は、68年には大きな盛り上がりを見せていた。日本の大学闘争で「大学解体」の標語と対連ついれんになったのは、「造反有理」という毛沢東の言葉であった。ベトナム戦争が本格化し、アメリカ合衆国では、大規模な反戦運動が起こった。東欧のチェコ・スロヴァキアには、「プラハの春」があった。それは「人間の顔をした社会主義」という希望の表現であったが、 8月末、これはワルシャワ条約軍のチェコスロヴァキア侵入によって圧殺される。

フランスの「68年 5月」も、今ではそのような世界的な動きの一環として記憶されている。「68年 5月」は、しかし、他とはことなるいくらか特別の様相をもっている。学生と警官隊との衝突に始まった「パリの事態」は、労働者のゼネラル・ストライキに引き継がれ、1カ月以上にわたってフランスの社会・経済を麻痺させた一大政治運動であったが、それは同時に街頭・大学・劇場などにおける広範で継続した討論でもあり、異議申立てでもあった。この討論は、政治の思考様式を一変させるものであった。それは、文化の諸概念にも深い反省を強いた。それ以後、フランスの知的状況は逆行不可能な形で変化する。どの思想運動もこの影響から無縁ではなかった。海老坂武によれば、この「5月革命は、@知識の特権化、制度化への異議申立て、A消費社会、商品化社会への反発、B文化が人間の生を疎外することへの危機感の表明、C人間をロボット化する管理社会の告発、などによって特徴づけられる」(平凡社大百貨事典、第13巻、p.117)。1970年代には、エコロジー、フェミニズム、地域主義の三つの社会運動が展開されるが、海老坂によれば、これらも(すくなくともフランスでは)68年 5月を直接継承する運動であり、フーコーやガタリ、デリダ、クリステーヴァなどに代表されるいわゆるフランス現代思想も、おなじく68年 5月に提出された問題をいかに解くかを主題とするものであった(同、pp.117-8)。

レギュラシオン理論の創始者たちは、若き経済学者としてこの68年を経験し、そこに自己の思想的出発点をしるしている。当時の状況のよき証人となっているのはアラン・リピエッツである。「1968年当時、社会科学の諸領域を支配していたのは構造主義でした。その当時、われわれもまた構造主義の考え方に依拠していました。」(リピエッツ、1993、p.122。ただし、句読点の取り方のみ少々変えた)。しかし、かれらの構造主義は、構造主義一般ではなく、マルクス主義構造主義であった。それはアルチュセールのマルクス主義理解とほぼ同義のものであった。

当時のフランス・マルクス主義は、理論的にはルイ・アルチュセールのマルクス理解に席巻されていた。それはより広い哲学運動である「構造主義」の一部と考えられ、現にアルチュセールはミシェル・フーコーとならぶ構造主義左派の代表と見なされていた。のちにアルチュセールは、自己の立場を構造主義と見なすことを拒否するようになるが、68年の時点では、それはまだ明確にはされていなかった。したがって、[アルチュセール]=[マルクス主義構造主義]であり、現状に異議を申し立てる若き経済学者たちが近づいたのは、このマルクス主義であり、構造主義であった。しかし、将来のレギュラシオニストたちが、68年の熱狂のなかで、アルチュセールに不満を抱いたのは偶然ではない。のちにアルチュセール自身が自己批判するように、当時のアルチュセールの考えは理論偏重ともいえるものだった。それはマルクス主義における長い政治主義の歴史(とくにソ連共産党に柔順であったフランス共産党の政治主義)に対抗して理論的地歩を確保しようとするものではあったが、革命の予感に沸き立つ若者たちを興奮させるに十分ではなかった。それは、むしろ、かれらに冷水を掛けるものであった。したがって、アルチュセールの切り開いた地平に立ちながらも、かれらはアルチュセールを批判し、それを乗り越えようとした。

それは、すでに触れたように、それはほとんど逃れられない運命のようなものであった。1968年を回顧する文章のなかで、リピエッツは、「68年当時われわれはアルチュセールと激しい論争を直接行いました」と書いている(リピエッツ、1993、p.126)。「マルクス主義の観点からさらに言うならば、われわれはアルチュセールの”反抗する息子”であります。」(リピエッツ、1993、 p.142) リピエッツはこう証言している。

リピエッツは、構造主義が古典的マルクス主義に対する進歩であったことを認める。たとえば、かれはアルチュセールが生産力概念を「労働編成のなかで人間が相互に取り結ぶ一定の関係」(リピエッツ、1993、 p.123)と見たことを評価する。しかし、「アルチュセール的な構造主義は極めて根本的かつ重大な欠点も抱えていました。」(同、p.124.)アルチュセールは、「構造の再生産それ自体が矛盾を生み出す」とは考えていない。構造主義は「社会関係を硬直的に対極化させて把握する」(同、p.124.)ため、「社会構造が、そのなかで生活する個人を規定する」(同、p.123.)側面しか説明できない。リピエッツはこう指摘し、構造主義においては、「個人はあたかも自由に個人的軌跡を選択しつつも、構造の再生産をひきおこす、つまり・・・主体の果たす役割は否定され、構造の再生産が全面を支配することになります。したがって、これは、方法的個人主義のたんなる裏返しににすぎないわけです」(同、pp.125-6)と批判する。

この批判はあたっている。すくなくとも、かれはこのような表現によって、ある問題の存在を指摘している。それについては後にまた考察する。われわれにとっての問題は、しかし、このように考えるリピエッツが、構造主義をどのように乗り越えようとしたのか、にある。かれは証言する。「ところで、1968年の 5月革命は構造主義的な考え方を主張することをきわめて困難にしました。もはや構造が再生産されない時代に入ったからです。それ以上に、構造を支えてきた諸個人が従来のゲームのルールを拒否するようになったのです。構造によって規定されていたはずの労働組合、学生運動が構造に対して偏差、ズレを生むような行動をとりはじめる事態が生まれました。」(同、p.126)これはリピエッツたちの実感にちがいない。 5月の街頭や劇場において、ひとびとはほとんどすべてのひとや組織が異議申し立てに立ち上がったことに感銘していた。新しい季節がやってきた。ひとびとはいままでの与えられた役割を投げ捨て、闘争に立ち上がった。このことは無視できない重大事のように感ぜられた。事実がアルチュセールを乗り越えているかに思えた。アルチュセールは社会の再生産と統一を見ている。しかし、「あらゆる社会関係が統一と闘争の2つの側面をもつ」(同、p.127)。こう了解することで、かれらはアルチュセールを乗り越えたと信じたのであった。

この批判は、しかし、心情的なものであり、けっして理論的なものではない。このことがレギュラシオン理論の方法論的な意識を甘いものにさせている。それは先に向かって乗り越えるのではなく、じつは逆に先祖帰りを引き起こしたのだった。このことを理解するには、たんにアルチュセールの構造主義だけを見ていてはたりない。構造主義一般の考え方とともに、それが批判の対象とし、乗り越えようとした課題と背景とを知らなければならない。そこで、話をさらに逆上らせて、構造主義とマルクス主義をたどりなおす必要がある。

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3.構造主義とマルクス主義

思想としての構造主義を最初に唱えたのは、人類学のレヴィ=ストロースであった。かれは、ソシュールに始まる構造言語学や、数学の構造概念などにヒントを得て、未開社会の神話体系や親族組織の研究に構造論的方法を導入し、構造人類学を創始した。1962年発行の『野生の思考』は、時の利を得て、構造主義の宣言の書となった。

構造主義は、人文・社会の諸科学を横断する方法として提唱された。フランス語圏では、当時、多数の分野で注目すべき学問が開花しつつあった。言語学のロマン・ヤコブソン、記号論のロラン・バルト、精神分析学のジャック・ラカン、発達心理学のピアジェ、精神史ないし知性史のフーコー、マルクス主義のアルチュセールなどである。数学の世界では、ブルバキが、構造を鍵概念として数学の統一を再建しようとしていた。構造主義は、これら多様な分野の新しい動きにある統一された方向を指し示すものと考えられた。

1968年以前の60年代後半は、構造主義がそのもっとも注目を集めた時期であった。歴史的にいっても、構造主義はサルトルの実存主義=人間主義の批判であった。それは、人間行為の基礎にある言語や社会の構造に光りを当て、そこに新しい知見を得ようとする運動である。不条理に人間の条件を見た実存主義にたいし、構造主義は、表層の下に横たわる不変なもの・論理的なものを見いだそうとした。それはフランス合理主義の伝統に根付いたものの見方であったともいえよう。ひとびとはそれを新しい思想として受け入れた。構造主義は、こうしてフランス語の思想圏を席巻する運動となった。それは、サルトルの実存主義に変わる流行の哲学となった。

この運動は、社会科学の諸分野に同等の効果をもたらしたのではない。たとえば、フランスの伝統的学問である社会学には、見るべき成果のあまりなかったことに注意しておこう。後に取り上げる若きブルデューは、明らかに構造主義の影響を受けている。かれの使用する「構造化する構造」、「構造化された構造」という用語には、ソシュール言語学と構造主義一般とからの二重の影響が顕著である。しかし、かれが自己の方法論を提示した『実践の理論素描』(Bourdieu,1972)および『実践感覚』(Bourdieu, 1980:日訳1988)は、すでに構造主義と人間主義の両者の乗越えを主題としている。社会学には、古くから機能主義という方法があった。このことが社会学における構造主義の実現を困難にしていたかもしれない(1)。上野千鶴子は次のように指摘している。「デュルケムは構造主義のすぐ近くまできていながら、トーテミズムを「社会の統合」という「機能的意味」に短絡させることで、機能主義に後退してしまった。」(上野、1985、p.11)構造人類学は、しかし、ある意味で、デュルケームの延長線上にある。デルケームは社会現象が集合的なものであることを強調し、個人主義に反対した。レヴィ=ストロースの神話分析・親族分析は、個人の意識ではなく、社会の無意識に横たわる集合意識(つまり集合的無意識)を対象とのするものであった。

経済学の分野でも、構造主義は、新しい成果を生み出したわけではなかった。すくなくとも、その標語のもとに、フランス語で書かれた注目すべき文献は存在しない。かわりに生み出されたのは、アルチュセールとかれの協力者たちによるマルクスの新しい読み方であった。構造という用語は広い使用例をもっており、それぞれの科学において、しばしば異なる概念として用いられている。その意味で、「構造」は、ひとつの範疇であっても、意味の確定した概念と見なすことにはしばしば困難がある。マルクスが用いた「構造」とレヴィ=ストロースや構造言語学の「構造」とが同一の用語であることは明らかである。しかし、両者はおなじ概念であろうか。表面の意識から隠されたなにかという意味にはおいては、両者は共通するものをもっている。レヴィ=ストロースは、このことをあえて強調し、マルクスからの明示的な借りを認めている(2)。しかし、一方は、社会の基底にあって、その表現としての運動を規定している諸関係であるにたいし、他方はさまざまな変換を通して不変に保たれるものである。学問的作業により発見されるべきものとしても、前者は対象に実在すると想定されるものである。おなじ抽象化の作業により発見されるものであっても、後者は理解のために構成されたもの、理論的に考え出されたものである。両者は別の概念であると言った方がよいほど、その用法と含意とは離れている(3)。それにもかかわらず、構造主義の隆盛は、著者たちの意図を越えた理解をひとびとのなかに生み出した。レヴィ=ストロースとアルチュセールの読み方を媒介として、マルクスは構造主義のヒーローとなった(4)。

アルチュセールがマルクスの新しい「読み」として提出したものを理解するには、フランス・マルクス主義の若干の歴史を理解することが必要である。

フランスはマルクス主義に、その3つの源泉の一つ、社会主義を与えた。しかし、フランスに対するマルクス主義の影響がむしろ遅ればせのものである。パリ・コンミューンの失敗後、マルクス主義はフランスに徐々に受け入れられるようになり、第1次世界大戦前には、フランス社会党を指導したジャン・ジョレスのようなマルクス主義者を生み出した。

人民戦線とレジスタンスの経験をへて、フランス共産党の勢力は、西ヨーロッパ諸国のなかではイタリアの党と並ぶ強力なものであった。しかし、知的世界のなかでマルクス主義が力をもち始めるのはようやく第2次世界大戦後である。正統的なマルクス主義はフランス共産党により示されたが、それはモスクワの路線に忠実なフランス共産党の伝統を表現するものであった。したがって、創造的な試みは、多少とも異端の流れのなかから生まれてきた。その最初の代表は、アンリ・ルフェーブルであった。その活動は戦間期に始まっている。第2次大戦後、フランスでは、哲学の世界におけるヘーゲルの受容を媒介とし、実存主義とマルクス主義との奇妙な結合が生じた。エンゲルス以降のマルクス主義の全世界に及ぶ概観を試みたD.マクレランは、これを「実存主義的マルクス主義」とよんでいる(マクレラン、1985、第20章)。その代表がジャン・ポール・サルトルである。

サルトルは、フッサールやハイデッガーの影響を強く受け、人間的実存を非歴史的・非唯物論的に考察する立場から、戦後しだいにマルクス主義に接近し、ついにそれを20世紀の乗り越え不可能な思想と認めるに至った(Sartre,1960,p.6)。後期の哲学的主著である『弁証法的理性批判』(第1巻:1960、第2巻[未完]:1985)において、サルトルが試みたのは、マルクス主義の基本的問題設定を受け入る実存主義者として、現代マルクス主義の陥っている不毛性を批判し、発見学としての弁証法を再活性化させることであった。マクレランの巧妙な要約によれば、かれは「社会学と心理学が「仲良く眠り込む」方法によってではなく、それらをほんものの弁証法的マルクス主義の枠組みのなかで統合する方法によって、具体的人間学を生み出すこと」(マクレラン、1985、p.326)を目指していた。

その具体的な提案の一つが、「集列」(s rie)の概念に見られる。集列は集団から区別される。集列とは、たとえばバスをまつ人たちの作る行列である。かれらはおなじ目的をもって並んでいるが、そこには相互の意志疎通の構造もなく、かれらは行列上の位置により区別されているだけである。サルトルは、階級も、それ自体としては、このような集列であることを指摘し、大著第1巻の大部分をこの人間の集合の弁証法に費やしたのであった。

レギュラシオン理論が一般均衡理論の方法的個人主義とアルチュセールの構造主義に反対して登場したのとちょうどおなじように、アルチュセールは、正統的マルクス主義の経済主義(=経済決定論)とサルトルなどの人間主義的マルクス主義に反対して登場した。かれが論述の武器としたのは、認識論的切断(coupure epistemologique )と問題意識( problematique)の2概念だった。この2概念はマルクス主義の伝統の中にあったものではない。アルチュセール自身が明らかにしているように、前者はガストン・バシュラールから、後者は若き哲学の友人ジャック・マルタンから借用したものである(5)。この2概念を導きとして、アルチュセールはマルクスの新しい「読み」を展開する。

最初の攻撃対象となったのは、「若きマルクス」だった。『経済学・哲学草稿』に代表される青年時代のマルクスは、人間疎外を問題にしていた。実存主義的マルクス主義がマルクスにおいて読んだのは、結局のところ、この人間本質を問題にし疎外を語るマルクスだった。しかし、アルチュセールにとって、それはマルクスがまだイデオロギー的に考えていた時代のものにすぎなかった。アルチュセールは、マルクスがイデオロギー的問題設定から、一つの「切断」を経て、史的唯物論を科学として成立させた、と考える。アルチュセールによれば、この切断は、『ドイツ・イデオロギー』(1845年)という明確な日付をもっている。この切断により、マルクスは、史的唯物論という歴史の理論を打ち立てると同時に、そのおなじ運動のなかで過去のイデオロギー的哲学意識を断ち切り、弁証法的唯物論という新しい哲学を打ち立てた。こうアルチュセールは主張する。この考えからすれば、1844年の草稿のマルクスは、フォイエルバッハなどとおなじ思想的水準にあり、マルクス主義はそれを否定するところから出て来たものということになる。若きマルクスのこのよう位置付けにより、アルチュセールは、マルクス主義は人間主義にあらずと宣言し、サルトルや東欧の人間主義的マルクス主義を義絶する(6)。

では、マルクスはいかにしてこのような切断を成し遂げることができたのか。アルチュセールは、それを理論的実践(pratique theorique)の一般理論として解こうとする。マルクスが剰余価値の理論を創始することができたのはなぜであろうか。アルチュセールはそれをマルクスの読み方に求める。マルクスはスミスを読んだ。他の多くのひともスミスを読んだ。なぜマルクスだけが、「労働の価値」を問うという問題意識から「労働力の価値」という概念の発見へと進むことができたのか。この答えを見つけるために、アルチュセールが『資本論を読む』(1965)で行ったのは、天才的ともいえる巧妙なものである。それは、マルクス自身がスミスに対して行った読み方をかれ自身がマルクスについて行うというものであった。アルチュセールは、この読み方を「兆候的読み」(lecture symptomatique)と名付けている。この用語は明らかに精神分析からの借用である。兆候的読みは、そこにあるものばかりでなく、そこにないものの意味を読み取ろうというする。このとき重要になるのが、上に触れた「問題意識」という概念であった。

このようにして、アルチュセールは、ヘーゲル主義の臭においを徹底的に抜き去ったマルクスを再構成する。それは歴史の主体という観念をイデオロギー的であると否定し、個人を構造の規定する役割の担い手と見る理論であった。前者はルカーチらの歴史主義にたいする、後者は実存主義の人間主義に対する、アンチ・テーゼであった。構造主義的マルクス主義は、こうして二重の意味でサルトルにたいする反対であった。それは実存主義にたいする新しい思想としての構造主義の主張であり、実存主義的マルクス主義にたいする構造主義的マルクス主義の提唱であった。構造主義が時代の寵児となるとともに、構造主義的マルクス主義も時代の寵児となった。それは理論的実践を特権化し、階級闘争やその一表現としての政治闘争からは、むしろ断絶するものであった。それは理論における闘争を拒否するものではなかったが、理論主義と思われても仕方ないものだった。アルチュセールは後に、この理論偏重を自己批判し、同時に自己の理論的営みを構造主義から切り離すことになる。しかし、1968年当時、フランスの左翼にとって理論的に最高に輝いていたのは構造主義者と捉えられたアルチュセールだった。

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4.レギュラシオン派のアルチュセール批判

若きリピエッツたちが68年の喧噪のなかでアルチュセールに論争を挑んだことは評価されてよい。しかし、かれらが批判しえたと考えた批判について、もう一度、考えてみよう。ここでも、代表者としてリピエッツとボワイエの証言を取り上げる。

リピエッツたちの「目的は、彼[アルチュセール]の研究の貢献を破壊することではなく、かれの限界を乗り越えることにありました」(リピエッツ、1993、p.126)という。かれらにとってもっとも重要なことは、「社会関係を統一のみならず対立として把握し直すこと」(同、p.127)であった。それをリピエッツは弓の例をとって図解している。かれによれば、弓の弦は相反する二つの力の統一を表すのにたいし、弓幹ゆがら(剛体からなる弓の弧の部分)はそれらの対立を表している。ひとつの弓がこのように統一と対立を表しているように、すべての社会関係も統一と闘争の二つの側面をもっている。これを個人の行動の時間的過程のなかで考えると、「個人は自分の位置を再生産する方向、つまり統一の方向に行動すると同時に、構造の再生産にたいしてズレを生む方向に行動」(同、p.127)することをも意味する。したがって、あらゆる社会関係は炸裂する傾向をもつ、とリピエッツは考える。 

これはきわめて主意主義的(voluntaristic) な考え方である。ひとびとがズレを生むような行動をとれば、それによりズレはどんどん拡大して、それまで事態の再生産を保証していた構造は危機におちいる、というのである。68年5月の興奮のなかでは、そのようなことは信じられたかもしれない。かれらにとって、危機は所与であり、事態は原則として危機を迎えるべきものであった。したがって、かれらにとってありうる設問は、事態が奇跡的に安定するのはなぜかであった。リピエッツは「社会は分裂、爆発の傾向を抱えているにもかかわらず、諸主体が良好な結果を生み出す軌跡をたどることになるのはなぜか」(同、pp.17-8)と自問し、その安定を生み出すものをレギュラシオンと呼ぶという(7)。しかし、これはアルチュセールの構造概念とその種差においてどれほど異なるものであろうか。また、構造主義の問題提起をどこまで踏まえたものであろうか。

問題は、二つに分かれる。第一の問題は、リピエッツの認識の妥当性にある。社会は分裂、爆発の傾向を抱えている。この認識は、正しいか。任意の時点を取るとき、この判断は確率的にはむしろ誤りである。なぜなら、社会はたとえ分裂、爆発することがあっても、それは例外的であって、社会はその存在のほとんどの時間を安定した状況のなかに過ごす。もちろん、長期には、社会は大きく変化する。マルクス主義者なら、だれしもそれに同意する。しかし、怒れる若者にとって、ことは緊急・現下の問題であった。その切迫した危機の感覚をアルチュセールは欠いている。それがかれらのアルチュセールにたいする不満であった。「構造主義者はいかにして構造が再生産されるか解明したけれども、危機を把握できなかった」(同、p.127)とリピエッツは批判する。しかし、その批判の結果、かれらが生み出した問いは何であったのか。リピエッツが「レギュラシオン様式」の定義として持ち出すのは、「個人的軌跡をして構造の枠内にとどまらせるよう」作用する諸力である。それを力と呼ぼうが、構造と呼ぼうが、また再生産の条件と呼ぼうが、そこに立てられている問題は同じである。アルチュセールが「すでに所与の構造化された複合的な全体」(8)という範疇で示そうとした問題、「主体なき過程」(9)という言葉で示そうとした問題は、ほかならぬこれであった。マルクス主義者として、かれは危機と革命を否定しないだろう。それを認めたうえで、かれは再生産という問題を提出した。それが戦略的な問題であることをアルチュセールは知っていた。再生産の分析は、それを追認することではない。その成立条件を明らかにすることである。もし組織された運動があって、その条件を崩すことができるならば、再生産の分析はそれを崩壊させるにも使うことができる。リピエッツは、じつはアルチュセールの後を追いかけているのだ。

 二つに分かれた問題の第2は、社会変革の道筋をどうたてるか、にある。レギュラシオニストたちは、自分たちがアルチュセールの構造主義を乗り越えたと信じているが、その問題設定においては、アルチュセールの枠を越えていない。ズレを起こすという行動によって構造が危機におちいると理由なく考える点において理論的にはむしろ不用意であり、左翼行動主義(gauchisme)の心情に流されている。問題は、個々の行動が反逆的か否かではなく、それらの行動の集合が、目指すべき方向に現在の再生産の構造を突き崩すものとなるかいなか、である。ある個人の行動が所与の役割から逸脱するとき、それは再生産の破壊=構造の再転換をもたらすであろか。それとも、そのような逸脱はたんに他の個人の別の行動により埋め合わされ、構造は基本的に維持され続けるだろうか。論理的にはどちらも可能である。ある特定の事態において、これがどのような可能性をもつかは、注意深い検討を要する。政治運動の指導においては、経営の場面におけると同じく、ときに決断する以外に仕方のないことがあるかもしれない。しかし、学問は、そのような決断においてではなく、対象の分析を深めることにより進歩する。体制にたいする反逆に期待を寄せたい気持ちは分かるとしても、そのような冷静な分析もなく、危機の認識を押し付けることは社会科学のとるべき態度ではない。

 個人の役割をかんがえるにあたって、かれらはそのような言葉をもちいないが、その実際の思考においては、「実践」や「投企」といった実存主義・人間主義の立場に舞い戻ってしまっている。こうした言葉づかいから出発したサルトルは、しかし、もっとよく考えていた。立場は同じであるがけっして組織も団結もしていない集列状態にある諸個人は、いかにして社会を変革する主体になりうるのか。かれらが有機的に結合した集団に組織されていく回路はなんなのか。サルトルは、こうした問題を設定し、それを解明しようとした。変革の「主体」形成を考えようとするなら、これは避けて通られない問題である。リピエッツが思い描いたように、ひとびとが既存の慣行に従わなくなりズレを起こすようなったといったしても、それは革命なり社会変革の十分条件ではない。それは必要であるかもしれないが、十分ではない。アルチュセールが歴史における主体の概念に反対したとき、かれは労働者や革命党の役割を否定したのではなかった。歴史の過程は「つねにすでに所与の構造化された全体」のなかにあるのであって、それは労働者たちのたたかいといえどもそのような全体のなかで展開されることを強調したにすぎない。レギュラシオニストたちのアルチュセール批判は、アルチュセール自身を理解していないばかりか、アルチュセールが批判の対象としたサルトルの問題設定からも後退してしまっている。リピエッツの先行理論批判は、批判対象である理論が解こうとした問題を解くことによってではなく、それを忘却することによって成立している。このような批判から、理論の深化が得られることはない。

ボワイエは、ややことなる観点からアルチュセールを批判しているが、その批判もリピエッツと大きく変わる質のものではない。アルチュセールは当時「資本主義の歴史はその不変の要素(商品関係や賃労働関係)の再生産だ、そして構造こそが再生産されるのであって歴史は無だ」(ボワイエ、1990, p.101)といっていた、とボワイエは主張する。それにたいしボワイエはヴィスコンティの映画『山猫』の「何も根本的に変わらないためには、すべてがつねに変わらなければならない」という警句を引用し、アルチュセールをつぎのように批判する。「資本主義がその不変の要素を再生産するためには、資本主義はふだんに新しい組織形態、新しいイデオロギー、新しい商品、新しい立地を創案していかねばならない。・・・不変の要素が自動的に再生産されると考えるのは、まちがいです」(同、p.102)(10)。

ここには、あきらかにふたつの誤りがある。第一は、アルチュセールが「歴史は無だ」あるいは「歴史は何の重要性ももたない」(同、p.101)といったか、あるいは少なくともそれを含意するようなことをいった、という誤りである。これは、一つの誤解であり、しかもかなり意図的な誤読である。アルチュセールは、理論におけるマルクスの絶大な革命を、かれが「歴史の科学」=史的唯物論を創始したことにあると考える。かれはマルクス・レーニン主義の公式にしたがい、マルクス主義を唯物弁証法という哲学と史的唯物論という科学との結合と捉える。しかし、史的唯物論は歴史をたんに科学的に読み解くことではない。マルクスは、歴史の科学的な読み方を始めたのではなく、「歴史の科学」(science de l'histoire)という新しい科学を創始した、とアルチュセールは考える。その偉業は数学という大陸に初めて到達した古代ギリシャ人や物理学の大陸を切り開いたしたガリレイにも相当し、歴史の大陸を切り開くものである(Althusser,1972, p.53:アルチュセール, 1974,p.217)。マルクスを歴史の科学の創始者とし、かれの科学的達成の意義を明らかにしようとするアルチュセールが、「歴史は何の重要性ももたない」、「歴史は無だ」と主張するだろうか。ありえないことである。

 では、なぜこのような誤解が生じ、また堂々と主張されるのであろうか。その理由はいくつか考えられる。まず、構造主義一般に認められる反歴史主義的な態度がある。構造言語学は言語の系統学に対し共時的構造の重要性を主張して出現したものであるし、構造人類学はいわば歴史をもたない種族を対象とする研究である。そこに歴史にたいするある種の侮蔑が表明されても不思議はない。しかし、構造主義マルクス主義は構造主義一般ではない。たとえかれが一時期、構造主義をもてあそぶことがあったとってしても、アルチュセールは構造主義一般ではない。かれを批判するには、かれ自身の言説を問題にしなければならない。しかるに、アルチュセールにとって、史的唯物論はなによりも歴史の科学である。そこには社会構成体は歴史的な存在であるという明確な主張が表明されている。

 もちろん、アルチュセール自身の主張にも、いくらか誤解を招くところがある。かれは「歴史は主体なき過程」(アルチュセール,1970,p.121)であり、マルクス主義は歴史主義(historicisme)ではない(Althusser, 1975,「『資本論』の対象」、第5節表題)、と主張するからである。マルクス主義の歴史において、歴史主義は根強い伝統をもっている。それはロシア革命に前後する時期に、第2インタナショナルの機械主義・経済主義にたいする反動として生まれた。最初、それはドイツの左派、ローザ・ルクセンブルグとメーリングの周辺に現れ、コルシュやルカーチなど一連の理論家たちを生み出した。その中には、コルシュのように、今日ではほとんど見失われてしまった人もいるし、ルカーチのようになお重要な役割を果たしているものもある。しかし、アルチュセールが今日もっとも重要な歴史主義の代表者と捉えるのは、イタリア共産党の創始者のひとりアントニオ・グラムシである。アルチュセールは、グラムシの偉大な貢献を認める。かれは、フランスが生み出すことのなかったマルクス主義理論家(アルチュセール、1994、p.31)であり、マルクスとレーニン以降、かれの知るかぎり上部構造の固有の領域に真の探検を試みたただ一人の人物である。この根強い流れは、マルクス自身にも原因がある。若きマルクスのみならず、成熟期のマルクスにおいてすら、歴史主義的な解釈を許す表現がある。しかし、実践の哲学としての歴史主義は、理論的実践を実践一般に、したがってまた現実の歴史における政治的実践に解消・還元するものであり、マルクス主義の2要素である弁証法的唯物論と史的唯物論の区別をあいまいにする。それは結果として、歴史の科学の創始というマルクスの偉業を、革命的ではあるけれども、基本的にヘーゲル的な歴史哲学の再確認に引き戻してしまう。このような歴史主義は、実践、政治行動、世界の変革への直接的な呼びかけを伴っている。歴史主義としてのマルクス主義がひとびとに訴えるのは行動主義・主意主義によってである。しかし、それはマルクス主義を行動の哲学ないし実践の倫理と同一視するものであり、マルクスの理論における絶大な革命を否定するものでしかない。

 こう解説して、アルチュセールはマルクス主義をその歴史主義解釈から切り離そうとする。反人間主義とおなじく、アルチュセールの反歴史主義は、しばしば誤解をまねいている。それはけっして分かりやすい立場の取り方ではない。線引きは微妙であり、ルクセンブルグからグラムシにいたるゆたかな遺産をも、簡単には継承できないことを意味する。しかし、歴史の科学の創始者としてのマルクス、理論における絶大な革命の遂行者としてのマルクスに照明を当てるとき、反歴史主義はむしろうなずくべきものとなる。問題は、主体/客体(主観/客観、sujet/objet)という近代の範式のなかで人間社会を考えていくか、それを拒否しようとするか、にある。アルチュセールの「歴史は主体なき過程である」というテーゼは、ヘーゲルや若きマルクスの歴史理解にたいする対抗=アンチ・テーゼとしてある。ヘーゲルは歴史をその主体である実体(=絶対精神)が自己展開する過程とみた。これにたいし、フォイエルバッハは、歴史の主体として絶対精神に代えて人間をもってくることにより、観念論を唯物論に転換しようとした。若きマルクスは、フォイエルバッハのこの立場から出発するが、それはスティルナーによって人間(der Mensch、 類的存在としての人間)を神ないし実体の位置に据えるものであると批判される。マルクスは、こうした批判などに触発されてしだいに考えを変え、ついに歴史における主体の概念を排除するにいたる(11)。故廣松渉氏は、これを「実体主義的な存在観から関係主義的存在観への転換」(廣松、1983, p.45)と表現する。アルチュセールは、これをマルクスのテキストにおける「主体」概念の蒸発と「過程」概念の発見=解放という兆候に見てとる。「歴史は主体なき過程である」という主張は、歴史すなわち人間社会を捉えるべき理論の構成におけるこの「爆発」を記念するものであり、歴史の理論のなかに、その主体として(類的であれ、個体的であれ)人間を持ち込むことへの拒絶である。これを反歴史主義というなら、それは同時に反人間主義である。ボワイエたちが理解できないのは、この反歴史主義であり、また理論における反人間主義である。廣松渉氏の言葉を借りれば、「この新しい世界観は、存在論的に抽象化していえば、実体の第一次性というヨーロッパ伝統の存在観に代えて”関係の第1次性という存在了解を押出したもの」(廣松、同、p.43)であり、デカルトの末裔であるボワイエたちにとって、このような深刻な主張は理解できなかったのかもしれない。

ボワイエが犯している第二の誤りは、構造の理解とその研究の意義そのものに関係している。構造の再生産は、すべてが不変であることを意味しない。再生産は、その基本的諸関係の再現として起こるのであって、多くのもの(たとえば、そこに介在する人間や取引される商品、それらの量的関係や、さらにはひとびとの行動様式まで)が変わりうるものである。構造とは、そのような変化のなかにある不変な関係に対する呼称である。ボワイエの考えるところとちがって、ヴィスコンティの警句は、構造主義の警句でもありうる。「何も根本的に変わらないためには、すべてがつねに変わらなければならない」ということは、裏がえしてみれば、すべてがつねに変わっていくなかに、根本的に不変なものが存在することであるからである。もちろん、マルクスの歴史の理論は、ひとつの警句ではない。それは生産様式の理論として、さまざまな用語によって分節化された全体である。たとえば、資本主義という生産様式は、資本と労働の分離と賃労働という基本的な関係によって維持され再生産されている。この構造は、資本主義であるかぎり不変のものであり、それがいかに再生産されていくかは、資本主義分析の基本である。いくらかの革新があるにせよ、レギュラシオン理論も、その資本主義分析においては、この基本にたっている。アルチュセールが構造の再生産という言葉で指し示したのもこのことであり、ボワイエらが反対する理由はない。

再生産の研究が構造の自動的再生産を前提しているという点にも、誤解がある。この点を本格的に論ずるには、もう一本別の論文が必要になる。ここではきわめて概括的に見る以外にないが、再生産は理論の前提ではなく、観察の事実である。たとえば、資本主義的生産様式は、その成立をいつに求めるにせよ、すでに 200年以上の存続を見ている。したがって、理論が資本主義的生産様式をその過程において解明しようとするとき、まず第一に解かなければならないことは、資本主義経済という構造化された全体がいかにそれ自身を再生産しているか、でなければならない(12)。研究の歴史において、しばしば、資本主義の不安定性が強調されたことがある。しかし、そのことにより資本主義的生産様式の崩壊の必然性が証明されるわけではない。むしろそれは理論の欠陥を証明する。資本主義はさまざまな危機を乗り越えて発展する。不況はむしろ資本主義を強化するものでもある。理論がもしこの力学を解明できないとするならば、それは理論の不十分さを示している。宇野弘蔵がかつて強調したように、資本主義の経済学がその崩壊の必然を論証するのはきわめて困難なのである。マルクス主義経済学のおおくが、資本主義の崩壊を予言するのは、理論の外部から希望的観測を密輸入しているからにほかならない。崩壊の理論は不可能であるとはいえないが、理論の出発点はその崩壊にではなく、再生産にある。それが十分に説明できないような理論にもとづいて資本主義の崩壊と社会主義への移行を議論するわけにはいかない。再生産の研究は、したがって、資本主義という生産様式がなぜ再生産され続けるのか、その機構と要件とを解明するためのものである。再生産の成立は研究の結果として説明されることがらであって、再生産はその意味で「前提」であるにすぎない。当然のことながら、要件の解明は、それが真に行われるならば(その困難はすでに指摘した通りであるが)、同時に再生産を阻む条件の研究でもありうこのような戦略的な意味においても、再生産ま過程分析派必要である。再生産の研究は、資本主義的生産様式の永続を前提するものでも期待するものでもない。

 再生産の研究においては、これはほとんど自明な前提であって、ボワイエがこのことを理解しようとしないのは、かれが再生産の研究を真剣に考えただことのないことを示している。資本主義が長期に再生産されていくためには、かれのいうとおり、「資本主義は不断に新しい組織形態、新しいイデオロギー、新しい商品、新しい立地を創案していかなければならない。」(ボワイエ、1990、p.102)しかし、これは再生産の否定ではない。資本主義的生産様式は、その内部に諸資本の競争という機構を内蔵しており、その競争は諸資本につねに新しいものの追及を強要する。すべてを新しいものに変えつつ、資本主義的競争という構造は保存されている。再生産は、ピエロ・スラッファが『商品による商品の生産』(1960)で示したような同種のものが厳密に量的に再現される循環から、資本主義的生産様式そのものの再生産のようにその内部に質的な変化を含むものまで、さまざまなスペクトルがある(13)。ボワイエは、自らの背丈に合わせて相手を理解し、そこに形成されるイメージに基づいて相手を批判している。かれらはみずからを「アルチュセールの反逆せる息子」 と呼びながらも、アルチュセールの提案をその深いところで理解しようとはしていない。そこがまさに反逆せる息子なののかもしれない。

 先行理論に不満ならば、その限界を突き止め、真剣に研究してそれを乗り越えなければならない。リピエッツやボワイエはアルチュセールのワラ人形を作り、それを攻撃しているにすぎない。かれらの最強の武器は、無視と無理解と忘却である。しかし、このようなまやかしの乗り越えにより、学問は進歩しない。レギュラシオン理論が各国経済の博物学になりつつあるのは、それが再生産の水準での理論的核をもち得なかったからであろう。この問題は、のちにもう一度議論する。

目次


5.出口としてのブルデュー

構造主義的マルクス主義は、不変の構造を探り出そうとするだけで、社会のダイナミックスを捉えていないし、捉えようとしてもいない。アルチュセールに対するこうした不満は、若きレギュラシオニストたちをもうひとりの導師に導いた。それが、ピエール・ブルデューだった。ブルデューのいう生成的構造主義とアルチュセールの否認された構造主義(構造に対する過程の優越と、過程に対する矛盾の優越)(アルチュセール、1978、p.55)との種差は、ブルデューの主張するほど明確ではないが、ボワイエもリピエッツも自分たちの方法の出所のひとつとして、ブルデューについては肯定的に語っている。「レギュラシオン・アプローチは、一方ではブルデュー社会学、他方ではアナールの歴史学の伝統を受け継いでいます。」(リピエッツ、1993、pp.142-3)リピエッツは、マルクス主義とレギュラシオン理論と関係について答える中で、たぶんに希望的にこう語っている。やはりおなじような文脈において、ボワイエも「ブルデューについては、「ハビトゥス」概念をはじめとしてわたしは高く評価します。「ハビトゥス」は結局のところ、われわれの「制度諸形態と同じような役割を演じる何物かだからです。」(ボワイエ、1990、p.102)と答え、直前のアルチュセールに対する否定的評価と対照的な反応をしている。では、ブルデューのハビトゥスとはどんな概念であり、それはかれの理論体系の中でどのような位置を占めた語なのであろうか。それはアルチュセールの構造の永久不変な循環からどのように脱却しているのだろうか。

 ブルデューは1930年に生まれている。世代的には、1918年うまれのアルチュセールと1943年生まれのボワイエのちょうど中間に属する。しかし、アルチュセールからブルデューへの乗り換えは、たんに世代の問題ではない。ブルデューは哲学者としての教育をうけたが、その学問的出発点をアルジェリアのカビール地方の民族誌的調査から初めている。そのきっかけは、徴兵されてアルジェリアにいったことだった。1960年にパリに戻ると、かれはレイモン=アロンの助手になリ、レヴィ=ストロースに学びながらアルジェリアの調査を続けた。構造主義が名声を勝ち得つつある時期であった。かれは構造主義に慎重であり、警戒心を失わなかったが、けっきょくかれは構造主義の諸前提をしだいに取り入れた。ブルデューの強みは、かれには、方法のまえに、アルジェリアでの経験があることだった。構造主義についてかれが不満に思ったのは、レヴィ=ストロースやアルチュセールが行為者の概念を放棄しようとしていることであった(14)。かれは社会を鳥瞰図的に見ることを拒絶し、個人の視点を社会の科学に再導入することを考えた。それは主体の単純な復活ではない。ブルデューは、個人の行動を語るとき、アルチュセールと同じく、主体(sujet=主語)という言葉よりも、行為者(agent=動作主、職務行為者、動因。代理人の意味をももつが英語のagentより広い)という言葉を好んで使う。人々の行動は、個人のものというより、むしろ社会的関係のなかに埋め込まれ、社会により文化的・慣習的に受け継がれているものである。そこで考え出されたのがハビトゥスという概念だった。このハビトゥス(habitus、フランス語ではアビテュスと発音される)は、習慣を意味する英語・フランス語などの habit の語源のラテン語であり、基本的には習慣ないし慣習としての実際行為の体系を意味する(15)。ブルデュー自身の定義は、たとえばつぎのようなものである。
「ハビトゥスは、構造化され客観的に統合されたプラティックの生成基盤として機能す  る、持続的で、置換可能なディスポジシオンのシステムである。」
Bourdieu, 1979, vii.『ディスタンクシオン』序文? 『ブルデュー入門』p.16より孫引き。

ディスポジシオンとは、ある行動を取りやすくする心ないしからだの傾斜・傾向といったものである。プラティークpratique は英語の practiceにほぼ重なり、実行・経験・手続き・慣行などといった意味の広がりをもっている。かつては医者の診療をも意味した。辞書には、具体的な結果をねらった意図的行為、人間の意志により外界の現実を変える行為などと解説され、理論と対立する、とされている。この語は、ギリシャ語のプラクシス praxisと置換可能なものであり、サルトルやマルクス主義の伝統では、後者の方がしばしば好んで使われている。プラクシスは、ふつう実践と訳されるが、この歴史のため、社会変革のための組織活動・政治活動といった特別の含意をもってしまっている。ブルデューはそのため「プラクシス」ということばを意図して使わず、フランス語の「プラティーク」を重用するが、それは人間の行為をなかば無意識的なものを含めた広い文脈のなかで考察するためとみられる。「プラティーク」は、日本語では、しばしば「実践」と訳されるが、ブルデューの翻訳では「プラクシス」=「実践」との区別を意図して、「プラティーク」と音訳されることが多い。

ハビトゥスの定義はあまり分かりやすいものではないが、それがプラティークを生成する基盤と考えられている点がもっとも重要である。そのため、ブルデューのプラティークでは、人間の意志の介入する行為ではあるにしても、意志決定の選択・決断の契機が弱まり、日常的・慣習的行動に焦点が当てられる。ブルデュー社会学のひとつのモチーフは、人間のプラティークをハビトゥスや場といった背景において解明することである。別のところで、かれはつぎの定式を提出している。(『ディスタンクシオン』T、p.159。ハーカー他、 p.12より引用)。

(ハビトゥス×資本)+場=プラティーク

ここに「資本」というのも、ブルデュー特有の使い方によるもので、物的ないし金銭的な財産以外に、しゃべりかたや身だしなみ、動作など家庭の中で身につけた文化資本をも含んでいる。場は、行為がなされる状況・環境としての場であり、物理学からの借用であろう。定式は、社会的慣習に個人の文化資本を掛け合わせて場を設定すると、プラティークが生産される、といった意味であるが、定式における×や+に厳密な意味があるわけではない。わたしの印象からは、×と+とを入れ替えて

    (ハビトゥス+資本)×場=プラティーク

とした方が、比喩としてもいいような気がするが(17)、そのあたりは論旨にかかわらない定式は、ブルデューの特殊な用語で重要な4つがたがいに関係して他を規定しているありさまを象徴的に表現していると理解しておけばよい。

 ところで、かれのプラティークの理論を全面的に展開する意図をもって書かれた『実践感覚』では、ハビトゥスはつぎのように導入されている。
「ハビトゥスとは、持続性をもち、移調が可能な心的諸傾向のシステムであり、構造化する構造として、つまりプラティークと表象の産出・組織の原理として機能する素性をもった構造化された構造である。」}

ブルデュー、1988、p.83.ただし、訳文では「プラティーク」は実践と訳されている。
この定義の前半は最初の定義と大差あるものではない。語句の違いは、大部分、翻訳の違いに過ぎない。しかし、後半になると「構造化する構造」と「構造化された構造」という概念が使われ、ハビトゥスは「構造化する構造」として「構造化された構造」と定義されている。構造化する構造としての構造化された構造とは、いかなる事態を意味するのか。いささか意味の取りにくい表現であるが、ここに構造主義に取り組み、そこから脱却しようとしたブルデューの苦闘の跡がにじみでている。

 あえて敷延すれば、この定義の主張は次のようなことであろう。ハビトゥスは、可能な諸行動のあいだのある傾向性の全体である。その傾向性は生活の日々の再生産という構造のなかで、ひとつの行動(慣習的でもあり、意志による選択の結果でもある行為=プラティーク)を生み出す。その行動は、それ自体、社会の他の成員・行為者との相互作用であり、それらは社会のなかで繰り返され、結合されて、その社会の物質的生活を生産する。人々のプラティークは、こうして社会の経済=日々の再生産を生み出すものであり、それが一つの構造として人々に現れる限りにおいて、それは構造を作り出すものでもある。ハビトゥスは、こうして、すでに構造化されたものであり、同時に、構造を作り出すものでもある。これを、ブルデューは、いささかの言葉遊びを加えて、構造化する構造としての構造化された構造と表現したのである。アルチュセールの言葉づかいをもちいれば、構造はつねにすでに構造化された複合的な全体であり、構造化は、けっきょく、ひとつの構造がそのなかからもうひとつの新しい構造を生み出すことを意味する。したがって、構造化するものと構造化されるものとがともに構造であることは、じつは当然のことである。「構造化する構造」、「構造化される構造」といっても、かわりにたとえば「構造化された全体」、「構造化する全体」などといっても、意味として大差はない。このようなことば遊びは、じつはヨーロッパの哲学用語の歴史には中世以来みられる。ブルデューも、なかば遊びごころで、その伝統を踏襲したのであろう(17)。「構造化する」(structurante)と「構造化された」(structut e)を対立させるのは、すでに触れたようにソシュール以来のフランス言語学(正確にはフランス語圏言語学)の伝統である。

 『実践感覚』の第1章はおもに構造主義、第2章はおもにサルトルの批判に当てられている。このことから分かるように、ブルデューの努力は、主観主義の空想的人間学に陥ることなく、主体を欠く構造主義のなかに行為を回復することにあった。リピエッツがズレを起こす行動に注目したとき、かれが要求していたのはこの人間行為の枠組みであった。アルチュセールはそれを極力排除しようとしたが、ブルデューはプラティークすなわち人間の慣習的・日常的行為を主題として復活させた。それはレヴィ=ストロースの構造人類学にたいする批判でもあった。カビールでの調査で、ブルデューは生身の人間の話しを聞き、その内容からかれらの日々の暮らしを明らかにしようとした。アマゾンの調査に入りながらも、現地のひとびとの言葉をはなすことができず、親族関係の表を眺めていたレヴィ=ストロースと違って、たとえ植民者のことばであれ、人々とちょくせつ話のできたブルデューは、社会における人間の行動や行動の当事者に関心が向かわざるをえなかった。そこには、基底に横たわると考えられる構造よりも豊富な世界があり、ブルデューはそれに魅せられたのだった。

 ハビトゥスとプラティーク、これがリピエッツたちが待ち望んだ構造主義からの脱却の鍵であった。アルチュセールの理論体系には、人間・大衆は存在しても、主体は概念として厳しく拒否されていた。人間は、役割の担い手( support)であるか、行動の行為者(agent)であって、行為選択の主体ではなかった。アルチュセールに取り付く島がなかったとすれば、ブルデューにはプラティークの理論があり、ハビトゥスの概念があった。それは社会学だけではなく、経済学の行為・行動の理論としても手掛かりになる。ボワイエやリピエッツたちは、こう考えたに違いない。しかし、問題は、構造・ハビトゥス・プラティークという3つの極により確保された思考の視野が経済理論として真に生きているかどうかである。それは構造の再生産を強調するアルチュセールの枠組みと根本において異なるものになりえているのだろうか。

 ボワイエは、ハビトゥスが制度諸形態と同じような役割を演じる何物かとして評価する。かれは、議論の出発点に制度的なものをおくことを、ブルデューを媒介にして正当化しようとしている。かれの発言するところを引用してみよう。
「ハビトゥスは歴史、宗教、家庭教育、学校教育、イデオロギーから受けついだ何物かであり、諸個人の行動を条件づける何物かであって、「合理的なホモ・エコノミクス」なるものの正反対物です。ひとは合理計算なんかして行動しているのでなく、教育(形成)されたやりかた等々に従って行動しているのです。それに、ハビトゥスによって、社会化ということが説明できるので有効性が大きい。なぜ一定の規則性が存在するのか。それは家族、イデオロギー、教育、政治的・宗教的信条への固執などをとおしての社会化に由来するというわけです。」(ボワイエ、1990、p.102)

ボワイエは、ここで「社会化」という概念があたかもブルデューの発明であるかのごとくに論じている。しかし、もちろんこれは社会学の重要な主題であって、ブルデューだけがそれを論じているわけではない。たとえば、バーガーとルックマンの『日常世界の構成』(原題はThe social construction of reality、初版1966年)の第V部では「社会化」が主題的に取り上げられている(18)。これは現象学的社会学の現実が社会的に構成されるという中心的主張を展開したものである。いかなるものにも、説明の仕方はいろいろある。ボワイエがブルデューによって社会化を理解することに問題はない。だが、ひとびとの行動が一定の規則性をもつのは、社会化の結果なのだろうか。習慣は、たしかに身近なものの真似を通して社会的に再生産されるが、新古典派が考えるような目的最大化行動を人々が取らないのは、ただかれらがそうするよう教え込まれた結果ではない。効用や利潤を最大化しようとしてもできない事情があるのであり、そこでひとびとは、所与の条件と知識とに基づいてよりよい成果を上げようとし、おおくの場面で実際的な慣習的ルーティンに従うのである。それらが人から学びうるものであることは社会化に関係しているが、そのようなルーティンを採用する必要性はべつのところにある。この点については、一般均衡理論の批判に関係して次節でくわしく論ずる。制度諸形態を理解しようとするなら、そこまで問いかけを深める必要があるのだが、ボワイエたちはプラティークが制度につながったことで満足してしまう。アルチュセールにたいする不満を自分たちの責任において解決するのでなく、既製の思考に頼ってしまった弱点がここにみられる。

 人間の行動における慣習的なものへの注目はブルデューに始まったものではない。習慣や慣習については、古くから哲学者たちが注目したところであった。たとえば、フランスには、メーヌ・ド・ヴィランやラヴェッソン以来の習慣論の伝統があり(19)、その最後の位置にはサルトルがいる(20)。かれは、人間の行為が繰り返されて身についたものをギリシャ語を用いて、ヘクシス(' ξισ = hexis,サルトルは気息記号を無視して、これを exis エクシスと表記している)と呼ぶ。『弁証法的理性批判』では、このヘクシスとプラクシスとが人間行為の弁証法を説き明かす鍵概念になっている。ヘクシスは、ラテン語の habitus と同じように、動詞「もつ」( hecho )から派生した名詞で、持ち前の能力ないし身につけた傾向をいう。サルトルがフランス語の habitude ではなく、わざわざそのギリシャ語型をもちいるわけは明らかではないが、ある特別の思い入れがあってこの語を使ったことはまちがいない。サルトルにあっては、プラクシスが目的のある意識的な行為=組織化された企てであったとすれば、ヘクシスはむしろ受動的・無意識的な行いの傾向である。しかし、このことはプラクシスとヘクシスとが行為のある排他的な分類項であることを意味しない。むしろそれらは人間存在のたがいに相補的でかつ不可分な2側面を指示している。このことは、『弁証法的理性批判』におけるもうひとつの鍵概念である le pratico-inerte (翻訳では「実践惰性態」と訳されているが、「惰性的実践態」とした方が分かりやすい) の説明によく示されている。サルトルは未完におわった『弁証法的理性批判』の末尾ちかくにブルジョア精神としてのディスタンクシオン(distinction = 違い、上品さ)に触れ、 その清教徒ピューリタン的・禁欲的な生活態度とらしたものは祖先伝来の家族的ヘクシスであったが、そのヘクシスをみずからのプラクシス(目的行為)とすることで、資本家である自分たちの労働者にたいする優越・差別化を正当化する理由とした、という。このようにヘクシスがプラクシスとして行われている行為が、le pratico-inerte (惰性的実践態)である。フランス革命をおこなった群衆の力も、ポグロムにまではしる差別主義も、この惰性的実践態のひとつの在り方である。ロシア革命のなかでスターリンを生み出し、その体制を支えたのも、集列化した官僚組織の惰性的実践態だった。惰性的実践態は、実践の堕落形態である。人間の未来を切り開くはずの人間の行為が、それを阻害するものに転化する。マルクス主義の投企(projet)を是認しながら、スターリン主義の呪縛から人類を救い出す方策を探索しようとして、サルトルは実践のこの堕落形態を主題にせざるを得なかったのである。

 ここにはブュルデューがハビトゥスとプラティークとによって主題にしようとしたことが、別のことばによってではあるが、はるかに強烈な問題意識によって、ある意味ではより構造化されて、すでに語られている。たしかにブルデューの方がはるかに平明である。サルトルは、お世辞にも、その主張・考察をうまく説明したとはいえない。しかし、ブルデューの分かりやすさは、自説展開のうまさにもよるが、革命を典型とするような集団の共同的実践(プラクシス)を組織する理論の体系化という問題意識を捨て、ただ日常のプラティーク(慣習行動)を、サルトル的にいえば、その集列性において考察したにすぎないことによる。構造主義に先行したサルトルと違って、ブルデューは構造主義をくぐっており、その言説はサルトルよりはるかに社会科学的である。そのなかには、「戦略」といった概念も含まれるが、それはむしろ伝統的に引き継がれた損得計算であり、それにより行為する主体が取り戻されたとはいえない。68年5月の事態のなかでリピエッツが考えていた「ズレをうむような行動」は、ブルデューのプラティークのなかにも、戦略のなかにもない。その問題意識を生かすものは、むしろサルトルの苦闘のなかに埋め込まれている。サルトルは、アルチュセールに厳しく批判される原因となった、歴史を作り出す主体としての人間という概念をもっていた。リピエッツの求めていたものは、まさにこのような存在の理論ではなかったか。ボワイエはアルチュセールが歴史を否定したと非難するが、後者が否定したのは「歴史を作る主体」という概念であった。ボワイエも、68年の世代として、みずからを「歴史を作る主体」(のひとり)に擬することがあったかもしれない。しかし、現在かれらが歴史として語っているのは、客観化されて自動的に流れる事態の継続である。かれらのもともとの問題意識を生かすには、かれらはアルチュセールからブルデューに移るのでなく、アルチュセールの批判を受け止めて、サルトルの問題設定に戻ることではなかったか。ブルデューを媒介とすることで、かれらの初発の問題意識と現在のかれら自身の理論的実践とのあいだには、隙間が生じている。それは若き日の革命的な心情と経済官僚としてのかれらの現在の立場との乖離でもあるが、それにかれらは気付こうとしない。

 ブルデューは、レヴィ=ストロースやアルチュセールの後にきたものとして、非時間的な構造の罠に陥ることなく、人間の身体的な行動や象徴行動を社会的に語ることに成功した。ブルデューには、リピエッツの要求する、ズレを引き起こす人々を受け止める余地がある。ボワイエの要求する歴史があるようにも見える。しかし、その議論の構造が、かれ自身の主張するように、サルトルやアルチュセールを乗り越ええたものかどうかは、じつは疑わしい。かれは自己の立場を生成的構造主義と名付けるが、構造化する構造という主題があるにしても、構造の生成=構造の再編成・変動が解けたわけではない。サルトルについても、もちろん後発の強みとして、かれに批判を浴びせることはできるが、サルトルが提起して成功しなかった問いかけをブルデューはいくらかでも前に進めたろうか。リピエッツやボワイエが期待するような問題、つまり歴史の産出とそれへ向けての人間の実践という問題にいくらかでも迫ったのはサルトルであり、ブルデューではない。サルトルがその雄大な意図に失敗したのはほとんど明らかだし、かれは問題の提起をあやまったものかもしれない。しかし、それはたんに忘却のなかに捨て去られる問題ではない。

 ブルデューのプラティークは、サルトルのプクシスほど意図的・主意主義的でなく、すでに触れたように多分に日常的・慣習的なものである。これはブルデューにおいて社会変革の戦略形成という問題意識が抜け落ちただけの結果ではないのか。ブルデューの社会学的考察に出てくる人物たちは、意志をもって動きながらも、サルトルが惰性的実践態(le pratico-inerte) と呼んだものから抜け出ていない人々ではないのか。なぜ、レギュラシオンの理論家たちは、アルチュセールに反対し、ブルデューに依拠しようとするのか。サルトルをアルチュセールが乗り越え、アルチュセールをブルデューが乗り越える。ボワイエやリピエッツの頭にあるのは、こうしたフランス風の図式ではないのか(21)。このような図式は簡明であるが、先行理論に向き合う態度として真摯なものとはいえない。そこからは、問題がずれることはあっても、議論が先へ進むことも、問題が深まることもない。ブルデューのハビトゥスおよびプラティークを取り入れて、レギュラシオン理論の経済学はどれだけ深まったのか。マルクスもアルチュセールの再生産を説く。リピエッツやボワイエはそれが不満であったが、ブルデューの再生産とそれはどこが違うのか。あるいは、レギュラシオン理論はブルデューを取り入れることで、それにどんな革新を加えることができたのか。これらのことは、けっして明らかになっていない。

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6.先行理論の兆候的読み

先行理論に真に対決するのは、極めて困難な事業である。とくに難しいのは、何を目指すべきかの判断にある。これは、先行理論の問題性をどう解釈するかに密接にかかわっている。もし先行理論の提出している問題が誤りであるなら(つまり問題としてただしく置かれていないならば)、その理論を乗り越えることは、正しい問題領域を探すことであり、旧来の問題を無視することである。たとえば、問題が永久機関を作ることであるなら、正しい解決は、それを断念することにある。経済学でも、そのような問題は少なくない。マルクス経済学でいえば、価値から価格への転化問題は、その代表的な事例である。このような場合、問題の解決は、それが存在しないと宣言することである。しかし、先行理論がいつもこのようにして乗り越えられるわけではない。先行理論はただしく問題領域を突き当てているが、理論の枠組みが悪く、誤った方向に一連の理論展開がなされているのかもしれない。そのばあい、問題領域をずらすことによっては、先行理論を乗り越えることはできない。問題領域を受け継ぐ新しい理論を提出しないかぎり、先行理論は必要な理論として生き残る。理論は理論によって置き換えられないかぎり、消滅しないのである(じつは、誤った問題を消去するにも、新しい理論は必要である。第1種および第2種永久機関の不可能を説得するには、それぞれエネルギー保存の法則と熱力学の第2法則の定式化が必要であった。)

 レギュラシオンの理論家たちが新古典派一般均衡論とアルチュセールの構造主義に対決したとき、かれらが取った基本的な方向は異なる問題領域を提案することだった。それは、先行理論にたいするどのような判断に基づくものであったのだろうか。かれらは先行理論を批判するが、それに代わる新理論を提出することには熱心でない。放っておけば、自然消滅すると考えていたのであろうか。

 かれらは、基本的には、難問を避けたというべきであろう。ボワイエ自身、このことを自覚している。ボワイエ(1988)は、その編著の第1章でレギュラシオンの接近方法を説明して、自分たちの立場の取り方を「諸理論の間をぬうスラローム」に譬えている。歴史に基づきつつ歴史主義を拒否し、ケインズ経済学を制度的考察のなかに位置付けるが、制度主義を超えて理論を追及し、道具箱の直輸入は排除するが、マルクスの直観の再活性化を目指し、そのためにはさまざまな道具箱の適切な利用は否定しない、というのである。このような理論的曲芸によってなにができるか。ボワイエ自身の研究がその結果をよく表している。ボワイエで特徴的なことは、ことなる国・ことなる時代の比較である。ボワイエはそれを「蓄積体制の多様性」あるいは(フォーディズム後については)「国民的軌道の多様性」と呼び、即座に比較表を提出してみせる(22)。国と時期とを異にする大量の知識を集め、それらを比較することはかならずしも簡単なことではない。それをいとも簡単にやってしまうところに、ボワイエの研究組織者としての優れた才能がうかがわれる。しかし、比較という方法は、安易に行われるときには、ただ事態の多様性を示すだけで、それらの多様性の基底に横たわる同一性を忘れさせ、問題を深く掘り下げることを妨げる。あるいはボワイエは、生物学がその初期に博物誌に多く依存したように、さまざまな経済の博物誌を通して、分類学と形態学とを行おうとしているのかもしれない。だが、分類学と形態学から生理学に至るには飛躍があり、生理学と分子生物学のあいだにも大きな断絶があった。博物誌的研究を進めることで、いくらでも知識を増やすことはできる。しかし、そのような知識は経済にたいするわれわれの知見をどれだけ深めるだろうか。浅い知識の蓄積を通して深い知識を作りだすことは、しばしば考えられているほどには容易ではない。隣の国の旅行者が、すぐ気の付くことは、両国の社会・風俗の違いである。そこからいろいろなヒントをうることはできるが、経済学はそのような比較からはけっきょくは生まれなかった。ボワイエやリピエッツは、一般均衡理論の方法論的個人主義を拒否し、アルチュセールの構造主義に反発して、新しい経済学をもとめて歩き出した。その立場の取り方自体にわたしは反対しない。しかし、かれらは先行理論を乗り越えようとして、それらを単純に捨て去った。それは間違いであった。つまり、そのことでかれらの理論は浅いものになってしまった。

 一般均衡論は個人の行動を経済学的分析の俎上に上げるためのひとつの方法であった。それが均衡という枠組みと最大化という定式を採用したことは誤っているが、人間の経済行動を考察しようとしたこと自体は誤っていない。一方、アルチュセールは、経済を再生産という枠組みのなかで再考しようとした。それはバリバールの整理によれば、@事物の再生産とA生産関係の再生産とからなる(アルチュセールとバリバール、1982、p.378 およびp.380)。生産関係は、ボワイエたちの制度的諸形態を含むものであり、そこに設定されている問題はおなじである。制度的諸形態は、マルクスの生産諸関係の現代的言い換えである、ともいえる。ただ、アルチュセールは、その過程を考察するにあたって、人間ないし諸個人を主体の位置におくことを拒否し、かれらを社会的関係の担い手(supports=Tr ger)として扱おうとした。これにリピエッツは反発し、構造を拒否し、変革するものとしての人間を問題にしたのだった。すでに述べたように、これはサルトルの問題設定であり、そのままではアルチュセールからサルトルに問題を遡行させるにすぎない。アルチュセールは、サルトルの史的弁証法にたいし、科学としての史的唯物論を対置しようとする。それは社会とその変動の構造を明らかにすることなく、社会変革の戦略をただしく立てることはできないという問題意識に基づいている。サルトルが変革の主体形成を問題にしたのにたいし、アルチュセールはその道筋を問題にしたのである。ここには、サルトル=アルチュセール問題ともいうべき、難問がある。アルチュセールは、かれ自身がのちに批判したように、理論主義に陥り、人間の「主体的」な、すなわち共同化された意図的な行動=集団的実践という観点を欠いている。かれが語るのは、理論における実践ではなければ大衆の階級闘争という抽象である。しかし、主意主義(voluntarisme)だけで社会の改造は不可能である。アルチュセールとサルトルの総合が必要なのである。リピエッツはその課題の近くにたった。しかし、かれはそれに正面から取り組むことなく、「構造に対してズレを生む行動」という概念を対置するだけで問題を片付けてしまった。マルクスがその学位論文において、エピクロスのクリナメン(ずれ)に注目していたということは、問題をそのように片付ける十分な理由にはならない(23)。リピエッツやボワイエは、人間が社会の諸関係の担い手であると同時に、その行動において創造を行うこともできる存在であることを、経済学の枠組みにのせる努力をすべきであった。それは一般均衡理論の設定した人間行動論を再生産過程という枠組みのなかで再定式化することであっただろう。だが、それはなされなかった(24)。批判をほんものにするためには、先行理論に代わる新しい理論を提出しなければならない。かれらにその手掛かりはなかったのだろうか。じつは、アルチュセール自身にそれが発見できる。それはすでに触れたかれの理論的実践(理論的プラティーク)の理論である(25)。この理論は、知識の生産がとる、ひとつの模式として存在する。これは知識の「生産」という表現が示唆するところをあまりにも正確に踏襲している面を否めないが、理論形成のためのおおまかな手掛かりとして有効である。かれは、知的生産にあたって、関係する諸要素を三つのことなる集合に分割し、それらを一般性T、一般性U、一般性Vと名付ける(アルチュセール、1994、pp.317-9)。知識の生産とは、簡単にいえば、一般性Tという素材に、一般性Uという労働用具を作用させて、一般性Vという生産物を得ることである。一般性Vいままで存在しなかったものであり、それが新しく生産された知識である。アルチュセールは、この摸式をヘーゲルとマルクスの関係、およびマルクスとそれを読むアルチュセールとの関係に適用してみせる。マルクスはヘーゲルの方法という一般性Uをリカードウという一般性Tに働きかけさせて、史的唯物論=資本論という一般性Vを得た。これがマルクスの絶大なる理論的革命である。重複をいとわずいえば、マルクスはこの革命を、絶妙な仕方で、つまり一般性Tに働きかけさせる一般性Uを働きかける作業そのもののなかで変化させるという仕方で、行ったのであった。

 詳細にはいることなく、いまこの摸式をレギュシラシオン・アプローチの初発の問題に当てはめれば、素材としての一般性Tは一般均衡論であり、労働用具としての一般性Uは生産力と生産関係の再生産という視点であり、その課題は、後者の視点自体を豊富化させつつ、一般均衡の枠組みを新しい理論の枠組み(一般性V)に再編成することであった。この作業は、じつは一般性Uである再生産の理論そのものにたいする批判と対をなしている。リピエッツがアルチュセールに感じた反発は、その問題をただしく突き当てている。それは人間の経済的行動、行為者のもつ自由を再生産という枠組みのなかにどう定式化するか、という問題であった。なぜなら、その自由は多くのばあい、みかけのものではあるが、それこそが創造的行動という可能性に扉を開くものだからである。その作業を行うには、経済の再生産過程という具体的枠組みにおいて考察することが必要であった。偶然ながら、それはリピエッツたちの眼前に存在していた。P.スラッファの『商品による商品の生産』(1960)がそれである。アルチュセールの方法論を先取りするような形で、スラッファは再生産の理論を展開し、新古典派の需要供給均衡論にたいする批判として、すでにそれを提出していた。英語で書かれたこの小さな本は、イギリスやイタリアにすくなからぬ反響を引き起こしただけでなく、フランスにおいても同調者を生み出していた(26)。アルチュセールの方法によれば、これがかれらの一般性Tであり、その永久不変な再生産の循環にたいするかれらの不満が一般性Uである。それは、一般均衡理論にやや接近する問題意識、つまり行為者の視点の回復という課題をもっていた。しかし、永遠の循環の否定という目標だけでは、一般性Tすなわちスラッファやアルチュセールを乗り越えることはできない。それを真に乗り越えるためには、まず、それがなぜ新古典派批判でありうるのか、その理由を考えなければならない。再生産の視点は、主体均衡の視点になぜ優越するのであろうか。この点を突き詰めなければ、一般性Uを作用させて生み出されるものは、たんなる方法論的個人主義の主体行動理論でしかない。そのためには、もう一つの兆候的読み、すなわち一般均衡理論という一般性Tに、アルチュセールないしスラッファという一般性Uを作用させてみる必要がある。

 しかし、その手掛かりは、経済学ないしその周辺に存在していた。それは、H.A.サイモンの「限界ある合理性」という概念である。サイモンは経営学者として、企業の経営行動を観察し、それが利潤最大化といった形に定式化できないことを知っていた。かれは。そのことに合理的な説明をつけようとした。計算機科学の教授でもあるかれは、人間行動をコンピュータ内のプログラムとして実現しようと試みを重ねているが、そこにはつねに計算量の限界という制約がつきまとっていた。利潤や効用の最大化という古典的な定式は、この計算量の限界を無視している。最大化が可能であるためには、計算に必要な状況にかんする知識とその計算を遂行する時間とが必要である。しかし、その双方がともに強力な限界のもとにあるとすれば、行為者は最大化しようにもできないのである(27)。心のなかの計算をも含めて手続きとして実行可能でなければ(プラティークの次元)、たんに理論上存在する最大値(イデアルの次元)は生きている人間にとって意味をもたない。サイモンがのちに「実質的合理性」と「手続き合理性」という区別を導入するのは、このふたつの次元のあいだに境界線を引くためであった。

 限界ある合理性のもとで人間がある目的行動を行うとすれば、どのようなものになるだろうか。それが定型的なプログラム化された手続きであり、ルーティンである。ここに習慣や慣習の全体として構造化されるハビトゥスの「生物学的=人間学的」説明が開けてくる(28)。 このような考察は、ルーティン行動ないし定型行動がいかなる理由=事情により出現してくるかだけでなく、それらの行動がいかなる場合において有効でありうるか、行動の「場」ないし「状況」の限定条件をも明らかにする。じっさい、視野の限界・合理性の限界・働きかけの限界の三つの条件のもとで、人間は自己の行動を組み立て、自己のおかれている事態の改善を図らなければならない。それはシュンペーターが「 ab ovo の再構成」と呼んだような、すべてがいったんは要素に分解され、さいしょから再構成・再定義しなおされる状況ではけっしてない(29)。一般均衡理論の誤りの核心がここにある。学校の経済学におけるように、商品の数が2や3であれば、このような再構成は可能である。しかし、商品の数がわずかに 100を越える程度で、このような ab ovo の再構成はすでに不可能になる。消費者は、かれの効用を最大化できないのである(30)。三つの限界のもとにある人間を行動の場に立たせるには、状況の設定を根本的に変えなければならない。そのとき、何らかの意味での定常性が必要となる。「つねにすでに所与の構造化された全体」から出発しなければならないのはこのためである。

 循環=再生産過程の視点が一般均衡理論に優越するのは、人間の能力の限界の範囲でかれらの行動理論を提出できるからである。もし、事態が一定の時間をおいて厳密に再現されるならば、行為者は以前の行動を繰り返すだけで、ふたたび事態は一定時間の後に再生産される。したがって、この行動においては最小の視野と合理性と働きかけが必要とされるだけである。もちろん、このような極端な設定は、論理を明らかにするために有用であるにすぎない。より現実的な状況においては、事態はゆらぎをもち、厳格な再現はありえない。しかし、もしそこに関連する少数の変数たちの相互パタンに間歇的な再帰が見られるならば、能力の限界内で人間は有意の行動を取ることができる。それをわたしは「ゆらぎのある定常過程」と呼んでいるが、このような定常性が保証されれば、人間は習慣として獲得された定型的な行動つまりルーティン行動により、そこそこ満足できる成果を得ることができる(31)。行動の結果は、行為と状況を変数として決定されるが、その状況を構成する諸変数には行為者の認識に上らない変数も含まれているがゆえに、主観的な成果としては不確定性=偶然の成分をもつことになる(32)。そのような行為は、実質的には(イデアルな無限の能力世界においては)けっして最適ではありえないが、可能な行動のなかで平均的に高い成果が得られるなら、実際的には(プラティークの範囲では)受容せざるを得ないものである。ある状況のもとにある行動に満足できるかどうかは、知られている代替的な行動のなかで、より高い成果を期待できるものがあるかどうかに依存する。もちろん、このとき、成果は、期待される結果だけではなく、その行動を行うための負担を計算に入れたものでなければならない。

このように、人間のプラティークをハビトゥスの相において考察することは、もしその細部を省略しないならば、一般均衡理論の批判にも、再生産視点の優位性の確認にも、また習慣や慣習といった行動パタンの存在説明にも連結している。しかし、レギュラシオンの理論家たちは、一般均衡理論に反対しながらも、その批判には真剣でないし、アグリエッタ(1989、序説の1)のように再生産概念の必要を説きながらも、その視点の必要性と(一般均衡論にたいする)優位性をきちんと確認することもしない。ハビトゥスという手頃な概念が権威をもって語られると、ただそれだけで考察を制度諸形態から始めることを正当化してしまうのである。たぶん真実は、かれらは最初から、制度諸形態なるものに関心をもち、その正当化の論理を探していたのであろう。ブルデューは、その要求に応える格好の存在だった。したがって、かれらは、ブルデューに多くを学んだといいながら、ブルデューを深めることもしないし、サルトルやアルチュセールをかれが実際にはどこまで乗り越えられているのか、あるいはかれは問題を再定式したに過ぎないのか、こうしたことについても関心をもたない。「中理論を志向する」(山田、1991、p.55、およびボワイエ、1989の山田解説、p.228)というかれらの実際的な感覚には敬服するが、純粋理論への関心の希薄さが現実にはかれらの視野を狭め、問題関心の領域を制約しているのである。

 このような考察の機会と可能性は、かれらにもあった。ボワイエは、サイモンのこの概念と主張とをよく知っている。「制度諸形態の作用原理」としてレギュラシオン理論が考える3つの原理として、@(法的に合意のある)強制、A(妥協の結果である)協定、B(共同体に共通の)価値観を挙げたあと、「方法としては新古典派的だが、研究対象としては異端的な」注目すべき3つの研究方向の最初に、かれはサイモンの「限界ある合理性」を挙げている(ボワイエ、1989、p.91-2)。「この議論は、市場の合理性よりも高度な合理性の表現として制度を説明しようとするはじめての一例である」(同、p.92)と高く評価しながら、ボワイエは、しかし、この「開明的新古典派」の説明を「集団的行為は、本質的にアトム的な諸個人やア・プリオリに独立した諸行動を集計したり結合したりしても、必ずしも明らかになりはしない」(同)と突き放してしまう。ボワイエは、このようにして、行為者の行動という局面にまで降り立って考えることを拒否する。しかし、これこそリピエッツがアルチュセールにかけている視点として強調したことである。

レギュラシオンの理論家たちには、アルチュセールという方法を用いて、一般均衡理論を批判し、そこに新しい理論を創造するとともに、アルチュセールの方法そのものをも改造する可能性が開かれていた。それが現実化しなかったのは、機会がなかったからではなく、かれらにその意志がなかったからである。先行理論にたいするかれらの批判の姿勢がここに問われている。

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7.レギュラシオン批判:総括

以上、ながながとレギュラシオン理論が、その形成の場においてもちえた可能性を探ってきた。かれらはみずからの知的生産に代えて、ブルデューという既製の出口をもとめてしまった。そのため、「行動主体の日常的慣習行動」(山田(1991)p.22の引用による、リピエッツ『奇跡と幻影』訳pp.26-7) という主題をほぼ正確に突き止めながら、レギュラシオン理論はそれを経済の理論的に具体的な状況設定のなかに展開できないでいる。リピエッツは、行動主体の復活を要求したが、できあがった成果のなかに、主体ないし行為者が現れず、その議論がすべて社会的な制度によってちょくせつ説明されているのはなぜであろうか。その理由は、かなりはっきりしている。かれらの体系に過程分析が不在であるからである。のちにふれるように、レギュラシオン・アプローチが、形態分析と名付けによる理解を基本とする浅い理論におわっているのはそのためであろう。

過程分析とはなにか。あるいは、ある理論は、それがどのような要件を備えたとき、過程分析をもつといえるのか。こうした問題をここで主題的に展開することはできない(33)。ただ、社会科学へのマルクスの貢献の重要なものとしてアルチュセールが「過程」概念の導入を強調していることだけは注意しておこう。それはアルチュセールによって「主体なき目的なき過程」(proc es sans Sujet (sujets) ni Fin(s))とさらに限定されているが(34)、この限定は歴史を過程として考察するとき、そこに主体ないし目的を読みこもうとするヘーゲル的解釈に警告を発するためである。現実の経済では、過程はつねにすでに(toujours et d j )循環の中にあり、終わりをもたないごとく始まりをもたない。これは一般均衡論=方法論的個人主義の基礎にあって、それを支えるものである ab ovo (シュンペーターの用語、卵から=そもそもの最初からの意)の構成にたいする批判であでもある。この過程がどのように自己を再生産するか。経済の分析は、まずこの点の解明からはじまる。そのもっとも単純な形は、単純再生産であり、時間を置いての事態の完全なる再現である。そのような前提にたつ分析をケネーについでマルクスも行っている。おなじ立場から、スラッファは新しい価格理論を提出している。これは再生産の条件を調べるため研究であり、レギュラシオンの理論家たちが誤って理解するようにそれを前提とするものではない。

経済の再生産過程は、まず日々の再生産過程を押さえることから始まる。それは揺らぎのある定常過程であり、そのなかに不変にとどまる関係として構造が現れる。それが認識された形においては、構造は再生産の条件であるが、それは再生産と独立に存在するものではなく、再生産の様態こそが構造そのものである。ノルム、習慣、法律といったものも、このような日々の再生産において、それらを前提として発現する。ブルデューのいうハビトゥスも、このような事態の基本的な再生産(ゆらぎのある定常過程)を前提している。もちろん、ハビトゥスがひとびとの行動を規定するかぎりにおいては、それはまた再生産を構成するものでもある。ところが、リピエッツやボワイエは、このような再生産の過程を押さえることなくハビトゥスを独立させ、制度諸形態を議論する。そのために、それらの制度は、それが作用する場を失ってしまう。レギュラシオン・アプローチは歴史との接合を主張し、制度を持ち出す。制度は、しかし、それは制度を本当に分析する方法ではない。レギュラシオン・アプローチは、特定の制度体系を日々の再生産の過程において分析することがない。再生産の相において、制度を詳細に分析することができない。そのため、制度体系の差異にのみ視線があつまり、比較が常套法となる。

 差異の指摘は、異時という軸においても、異文化という軸においても可能である。いくらかの情報をもち、多少とも注意ぶかければ、この比較はつねに進行する。差異化のさまざまな視点が設けられ、異なる国の経済あるいは異なる時期の経済が対照される。こうして、原型になる、いくつかの事例が集められる。それは、たとえば、フォーディズム、トヨティズム、ボルボイズムといったものの比較という形を取る。あるいは、それは時代の区分と比較という形をとる。こうして異なる歴史をもつものの比較分析、異なる時期の比較分析が行われるが、それははたして歴史を研究することであろうか。歴史的な存在について語ってはいるが、それは歴史なものの発展を明らかにしてはいない。いくつかの典型が取り出され、名前が付けられ、おおくのことが語られる。だが、名前を付けることにより、何かが理解されたという錯覚がそこにないだろうか。

 村上泰亮(1990)がその遺著で語ろうとしたことは、歴史の連続性であった。歴史は名付けられるほど不連続に変わるかという疑問がその底に流れていよう。たとえば、わたしたちは産業革命以前と以後という区分で経済史を語ることに慣れているが、経済はその前後で本当にどれだけ変わったのか。通常なされる時代区分が示唆するような局面変化(phase transition) がそこに本当に指摘できるか。ボワイエの歴史区分と比較は、歴史の根本に迫るこのような批判にどれだけ答えられているか。わたしには、それはたいへん疑わしいことにおもえる。歴史におけるパラメーター(複数)の変化と制度的形態の変化とが、ボワイエではつねに混同されていないか。資源の枯渇や労働力の質の変化がもたらす経済の表面上の様相変化を制度諸形態の変化ないし調整様式の変化から区別して取り出せる理論的枠組みをボワイエの体系は備えているだろうか。異なる国・異なる時代・時期をもってくれば、さまざまなパラメーターはかならず異なる。そこから構造にかんする有意な違いが読み取れるだろうか。皮相なちがいの比較はつねにできるが、そこからいかに掘り下げることができるのか。このような疑問は、わたしにとって、すべて理論の不在を示す兆候である。

 レギュラシオン理論の膨大な言説のなかで、理論的掘り下げがいくらかなされているのはフォード主義の分析である。しかし、ここにおいても、生産性の上昇がなぜ実質賃金の上昇をもたらすのか、そのメカニズムを説明する考察はなされていない。労使の妥協とインデクセーションですべてが説明されているが、それは日本や韓国の歴史に当てはめ可能であろうか。集団交渉・福祉国家・社会立法といったものがレギュラシオン様式の内実だとするなら、それは経済現象の政治学的説明である。レギュラシオン理論は、経済学の理論ではなく、経済的なものの政治学なのであろうか。そのような視点がときに有効であることをわたしは否定しない。しかし、それが経済理論の不在を意味してはならない。まして、それは経済理論の不必要を証明するものでもない。ボワイエの先行理論にたいする批判は、すべてその政策的含意によってなされ、その政策提言が無効化したことが理論の無効性の証明に代替されている(ボワイエ、1990、pp.135-8)。かれがこの違いに気付かないのは(もし気付いていて、このように語っているとしたら、かれは聴衆である日本の経済学者たちを愚弄していることになる)、かれの経済学体系のなかに、理論と、その理論に基づくある状況設定の考察結果である政策提言とのあいだに区別がないからである。このことは、ボワイエにあっては、理論そのもの不在から生じている。このことは、ボワイエ自身の発言からも知ることができる。かれは、レギュラシオン理論が「純粋理論をうちたてる」意図のないことを公言している(ボワイエ、1990、p.36)。山田によれば、これは「純粋大理論の構築の拒否」のであり、「理論と歴史を近接化させる中理論」を志向する立場の表明である(山田、1991、p.55)。しかし、その中理論に理論がないとすれば、歴史学派や制度学派がたどったとおなじ道、つまり歴史の記述を無限に蓄積する方向に進まない保証はどこにもない。げんにレギュラシオン・アプローチの大方は、その方向に向かって歩み出している。

 理論におけるスラロームから、理論的突破(ブレーク・スルー)はうまれない。困難は実在するのであり、それを突破するには、その困難に正面から取り組まなければならない。レギュラシオン・アプローチは、先行理論がぶちあたった困難を横から擦り抜けることで、あたかもそれを解決したかの印象を作り出した。その印象はまやかしのものである。それは、新古典派の一般均衡論も、またアルチュセールの構造主義をも、実際には乗り越えていない。それはマルクス主義およびマルクス経済学の瓦解という現実のなかで、左翼的心情にひとつの出口を与えた。しかし、それは主流の経済学に代わる新しい経済学を提出するものではない。それだけの衝撃力をこめる作業はさいしょから放棄されている。スラロームによって理論における突破はうまれない。

−完−

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(1)アメリカ社会学には、マートンやパーソンズ以来のすでに確立した「構造・機能分析」という方法があった。このことが二重に影響していた可能性がある。アメリカ社会学の亜流のように思われかねないものでは、フランス社会学者の誇りが許さなかったかもしれないし、構造・機能主義とは異なるものとして構造主義を析出するのも難しかったに違いない。
(2)レヴィ=ストロースは『構造人類学』の注において、次のようにいっている。”La notion de structure, que je croyais avoir emprunt e--- entre autre--- Marx et Engels・・・.”L vi-Strauss(1974) p.364, note. また、『野生の思考』に収録された論争的文章でも、”Bien que notre r flexion l'un et l'autre ait son point de d part chez Marx”といっている。L vi-Strauss(1962) p.325.
(3)上野(1985)は、第8章「発生的構造主義に向けて」において、レヴィ=ストロースとギュルヴィッチとのあいだに交わされた「社会構造」の概念を巡る論争を紹介しつつ、構造分析論と構造発生論の2概念を析出させている。私見によれば、マルクスの構造概念は生成・展開の法則をも含み、過程の中にあって再生産される構造を第一義としている。その点では、マルクスの「構造」は、「構造発生論」的なものであり、レヴィ=ストロースよりギュルヴィッチの概念に近いといえる。
(4)構造主義第2世代の De Georges 夫妻は、マルクスを「最初の構造主義者」と見なしている。上野(1985)p.217。
(5)アルチュセール(1994) p.47. またpp.137-8の注(30)をもみよ。同、p.61注(2)にあるように、『資本論を読む』においてアルチュセールは、『資本論』第2巻のエンゲルスの序文をとりあげ、これら2概念の「マルクス主義的」性格の証明につとめている。アルチュセールとバリバール(1982)、第二部のY「『資本論』の認識上の命題」。とくにp.217およびpp.223-5。Althusser(1968)U, p.10, p.11, p.16 & p.19. なお、アルチュセール(1968)U、pp.192-3の用語索引「問題意識」および「認識論上の切断」をもみよ。
(6)『マルクスのために』所載の論文「マルクス主義とヒューマニズム」の執筆から公刊までに至る経緯については市田良彦(1994)を見よ(アルチュセール、1994、pp.511-4)。人間主義マルクス主義(とくにフロム)とアルチュセールとの興味深い交渉が報告されている。
(7)リピエッツは、「レギュラシオン様式」にかんする同様の定義をすぐ後でも再度行っている。リピエッツ(1993) pp.128-9.その骨子は「個人的軌跡をして構造の枠内にとどまらせるよう」作用する諸力があるという主張であり、それらの諸力をかれはレギュラシオン様式と定義している。
(8)アルチュセール(1994)pp.332-44.「唯物弁証法について」第4節表題。Althusser(1965) pp.198-205.この p.204 には、le toujours-d j -donn d'une unit complexe structur e という表現がある。この節の主題は、すべては複合的な構造化された過程であって、それらを生成する「単純な過程」などは存在しない、という主張である。
(9)「主体なき過程」(proc s sans sujet)という表現は、アルチュセール(1974) pp.239-436およびアルチュセール(1970) pp.120-4 などに現れる。Althusser(1972)pp,67-70、ibid. pp.86-9。初出は、前者は1968年2月、後者は1968年4月、つまり68年5月以前である。この範疇(マルクスはこれをヘーゲルに負うとアルチュセールはみている)と「大衆が歴史を作る」というマルクス主義の根本原理(アルチュセール、1994、p.478)との表面上の齟齬をどう説明するかという問題については、Althusser(1973) R ponse John Lewis を参照せよ。なお、この付録では、より細かく「主体なき目的なき過程」という表現がとりあげられている。Althusser(1973) pp.69-76。注(34)をもみよ。
(10)ボワイエは、アルチュセールのセミナーに出席し、議論していたことがある。そこにおけるかれらの主張は、後の批判と基本的に同じである。「不変なものが再生産されるためには」、すなわち「資本主義の諸形態が不断に適応するためには、貨幣、生産関係がたえず変化することが必要である」とかれらは批判した(ボワイエ,1990, p.264)。
(11)この間の事情は、廣松渉(1983)第1章(とくに第1節と第2節)に簡明にまとめられている。
(12)山田鋭夫(1989)は、アルチュセールの「再生産」概念について、それが「闘争」を「統一」に従属させるものであるとして、つぎのように主張する。「重要なことは、安定化した諸関係を事後的に分析することではなく、諸個人の相反的諸行動がどのように誘導されて特定の再生産構造をもたらすか、それを分析することである。」(山田、1989、p.213) 「諸個人の諸行動」を相反的なものに限ってよいかどうか留保するが、それ以外にはわたしはこの主張に全面的に賛成する。しかし、レギュラシオン派は「諸個人の行動が誘導される」過程を行為者の事前の視点にまで立ち入って分析せず、かれらの解説はかえって事後的な観察におわっている。これは、再生産過程を研究する意義を十分理論的に明らかにすることなく、安易に棄却したつけではないだろうか。第7節参照。
(13)この点にかんするアルチュセール派の理解については、E.バリバール「史的唯物論の基本概念について」のV「再生産について」(アルチュセールとバリバール、1982、所収)を見よ。
(14)アルチュセールは、既に触れたように、「主体なき過程」という標語を立て、それを「歴史の科学」の方法的核心と見ていた。注(9)をみよ。
(15)ただし、フランス語の habit は、衣装・身にまとう物という意味であり、習慣・慣習の意味では habitude が使われる。これは habitus の派生語の habitudo から来ている。habitus は、存在のありようを意味するが、転じて身に纏うものにもなった。服装は人の印象をおおきく左右し、そのありようを決める最大の存在であったからであろう。伝統性と流行性の双方が強く作用するものとして、服装は人間のハビトゥスを考える際のよい参照例である。なお、習慣のもうひとつ系列の語であるcustom/coutumeも、派生語として服装習慣としての costume/costume をもっている。
(16)ハビトゥスと(文化)資本とは同一類とも見なせるが、ハビトゥスと場とをそのようなものと見なすことは困難である。和・差が同一単位をもつ2量のあいだにのみ定義されるのにたいし、積・商は異なる単位をもつ2量のあいだにも定義されうることを考慮すると、(ハビトゥス+資本)×場とする方が無理がない。こうすると、ハビトゥス×場、資本×場がそれぞれ意味をもち、それらの和としてプラティークがあるともいえる。
(17)opus operandi, opus operantum/natura naturata, natura naturantumといった表現がしばしば使われている。サルトルには、totalit totalisanteという表現がある。(18)たんに「社会化」が分析されるのではなく、バーガーとルックマン(1977)においては「第1次社会化」と「第2次社会化」に分節化されている。
(19)三輪正(1993)を参照せよ。なお、英米系の哲学でも、習慣は、ヒューム以来、重要な主題であった。プラグマティズムの代表者パース、ジェイムズ、デューイの三人は、それぞれ習慣について考察している。
(20)サルトルに関する以下の考察は、三輪(1993)を参照している。
(21)これは、日本風の図式でもある。このように先行説にたいする後来説の優越を説く図式は、仏教の伝統のなかでは加上の説と呼ばれている。
(22)ボワイエ(1989)付録V、第1表、第2表、付録Wの(1)および(2)、あるいは山田鋭夫(1991)図表5−1をみよ。
(23)アルチュセールは、その晩年、「不確定な唯物論」という構想を抱いていたが、この発想の源泉は明示的にエピクロスにある。アルチュセール(1993)。
(24)第1節で触れたように[予定]、アグリエッタなどは一般均衡理論批判を試みているが、それを労働価値論の枠組みに落としこもうとしているため成功していない。ボワイエほかのレギュラシオニストたちは、このような「厳密な代替枠組みの構築」に関心がないか、あるいはそれを放棄している。ボワイエ(1989)p.149 を見よ。
(25)アルチュセール(1994)所載「唯物弁証法について」第V節「理論的実践の過程」。アルチュセール(1974)所載の「マルクスのヘーゲルにたいする関係について」には、「理論的実践の過程」に関するみずからの解説がある。
(26)Sraffa の本は、1970年、Dunod(Paris)から S.Latouche の仏訳が出た。1972年には、ニースで「非新古典派経済理論」に関するコロキュウムが開かれ、その報告書が1974年に出版されている(Berthomieu et Cartelier, ds.)。そこには、長短20本の報告が載っているが、そのうち半数の10本はその一部でスラッファの本を主題としている。1970年代始めには、スラッファはフランスでも十分知られていた。
(27)この事情については、塩沢(1990)第11章をみよ。注(30)をもみよ。
(28)塩沢(1993a) および (1994b)。ゲーレン(1970)、同(1985)をも参照。ゲーレンは、習慣的行動が意識にたいする負担免除をもたらすことを指摘し、この観点から社会学的な制度論を展開している。バーガーとルックマン(1977)も「制度化」を主題化するにあたって、まず習慣化の過程を取り上げている。
(29)J.Schumpeter(1936)p.10。シュムペーター(1977、 p.38)では、この語は「根底から」と訳されている。かれはここで人々が「価格、需要および供給については−−要するに彼らが実際の行動の基礎とするいっさいの要素の大きさについて」なにも知らなくても、「現存する国民経済の状態をいわばその根底(ab ovo)から再建する」と考えている(同前)。経済の循環において「慣行の経済様式」(同、1977、p.35、"habitual economic methods" Schumpeter, 1936, p.8)を維持しつつ過去の状態が再建される場合と「経験を失っ」て「暗中模索によって」(同、1977、p.39)再発見する場合とのあいだにある深い亀裂に気がついていない。ただし、「暗中模索によって」の部分は、英訳では「そのような努力をひとびとが実際におこなうことが可能であるとは意味しない」といい、その箇所の注では、「したがって、純粋理論にしばしば向けられる反対論、すなわち純粋理論は快楽動機と完全な合理的行動だけが経済生活において実際に作用している力であると仮定しているという反対論には誤解がある」(Schumpeter, 1936, p.10、訳は塩沢)といっている。この変更はシュンペーターの指示によるものとおもわれるが(Schumpeter, 1936,英語版序文参照)、「慣行の経済様式」がいわば「省略法的に考える」(シュンペーター、1977、p.39)やり方であり、必要ならば省略なしに「意識的で合理的な努力」(Schumpeter, 1936, p.10、訳は塩沢)により必要な最適解を発見できるという考えは変わっていない。
(30)塩沢(1990)のたとえば第8章をみよ。「解題」にもあるごとく、この主題は、第7章、第9章、第10章、第11章にくりかえされている。
(31)ゆらぎのある定常過程については、塩沢(1990)第1部をみよ。ゆらぎのある定常過程のより具体的な展開については、わたしの数理経済学(大阪市立大学・山口大学・京都大学大学院・北海道大学大学院、各1993年度)の講義を参照されたい。その構想の一部は、塩沢(1994)に公刊されている。
(32)状況は、行為者に主観的にも存在する。そのとき、状況は行為者により定義されたものとなる。参照「複雑さの帰結」。
(33)具体的には、塩沢(1994)第4章・第5章をみよ。また、過程分析の要件論にかんする主題的な論考をべつに計画している。
(34)L.Althusser(1973) R ponse John Lewis, 所載の論文"Remarque sue une cat gorie:《proc s sans Sujet ni Fin(s)》参照。
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[参照文献]

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ブルデュー、P.(1991)『構造と実践』石崎晴己訳、藤原書店。原著:P. Bourdieu    (1987)。 日訳初版:(1988)『構造と実践』石崎晴己訳、新評論。
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ボワイエ、R.(1989)『レギュラシオン理論』山田鋭夫訳・解説、新評論。
ボワイエ、R.(1990)『入門・レギュラシオン』山田鋭夫・井上泰夫編訳、藤原書店。
ボワイエ、R.(1992)『レギュラシオン』清水耕一編訳、ミネルヴァ書房。
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三輪正(1993)『習慣と理性』晃洋書房。
村上泰亮(1992)『反古典の政治経済学』(上・下)中央公論社。
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