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進化経済学会・2001年福岡大会報告

トーク「進化経済学のポジショニング」

第三モードの科学研究法としての計算経済学

                   

塩沢由典(大阪市立大学経済学部)



 われわれの進化経済学会は、多くの異なる潮流を含んでいる。それを大別すると、ふたつに分けられる。一方には、ベブレン以来のアメリカ(旧)制度派、マルクス研究者およびマルクス派、オーストリー学派、ケインズ派やポスト・ケインジアン、レギュラシオンやその他のその他の潮流に属する人たちがいる。他方には、コンピュータ・サイエンスや物理学、非線形数学を専門とする立場から経済現象に興味を持つ人たちがいる。前者は、総じて主流である新古典派の経済学に不満な経済学者たちである。後者は、自分たちの背景にあるもろもろの技法もって、経済の複雑な事象を解明しようとしている。この両者が共存しているところが日本の進化経済学会の大きな特徴である。アメリカやヨーロッパにも「進化経済学」を主題とする学会はあるが、第二の傾向の人たちが活躍する場とはなっていないように思われる。このことは日本の進化経済学会に、他の進化経済学会には可能性を与えている。それを以下に生かすか。これが進化経済学会の当面の大きな目標となろう。

 進化経済学会がこのような特徴を持つのは、かならずしも意図したものではない。むしろ、偶然の結果と何時他方がよい。設立時期の違いが幸運したのである。アメリカの進化経済学会はすでに長い歴史をもつが、確立した強い伝統があり、いわゆる「旧制度派」の集まりの域を出ることが難しい。ヨーロッパの進化経済学会は、もっと若い。それは経済学を革新しようとする意気込みに富んでいるが、簡単には経済学者たちの閉ざされたフォーラムである。これに対して、日本の進化経済学会では、経済物理学のリーダーやマルティ・エージェント分析の推進者たちが重要な構成部分を占め、進化経済学の行方に強い影響を与えている。経済物理学は、10年たらずの歴史をもつ若い学問分野であり、マルテイ・エージェント分析も、それが一つの方法として意識されるようになったのはそう古いことではない。日本の場合、幸運だったのは、進化経済学会の設立がちょうどこれらの学問分野の胎動期に当たっていたことである。設立がもっと早くてもも、もっと遅くても、進化経済学とこれら学問とが出逢うのはもっと難しかったに違いない。なかば偶然的にできた組み合わせではあるが、この組み合わせ、つまり制度進化や技術進歩を考えようとする経済学者たちと経済現象に興味をもつ計算科学者や物理学者たちの共通のフォーラムができた意義は大きい。

 これまでの150年、日本は、新しい学問を作りだすことにも、学問の大きな革新をもたらすことにも、あまり貢献して来なかった。経済学の歴史でいえば、宇野経済学や市民社会派といった少数の事例をのぞけば、理論的にはほぼ輸入に専念してきた。自分たちで新しい議題を設定し、それを育てて世界共通の学問とする経験をわれわれはほとんどもっていない。そのため、一部の学者の間には輸入業を学問そのものと取り違えている人がいるし、そうでなくとも外国、とくに欧米の新しい傾向に過度に敏感になる性向をわれわれは強く持っている。進化経済学会が作りだした偶然の組み合わせは、それを意識的に活かすならば、アメリカやヨーロッパの進化経済学が持ち得ない、大きな踏み石(stepping stones)を提供している。

 なぜこの新しい組み合わせが重要なのか。私見によれば、いま、経済学は、130年前にそれが限界革命を迎えたと同じか、それ以上の革新の時期を迎えている。その革新は、一経済学の革新にとどまるものではなく、ひろくは科学的研究全体、狭くも社会科学全体の広がりをもつものである。コンピュータによるシミュレーションがその主要な原動力である。それは、しばしば、第3モードの科学研究法と呼ばれている。第1モードは理論という方法、第2モードは実験という方法である。アクセルロッドは、コンピュータ・シミュレーションを演繹と帰納に次ぐ、第3の方法と見なしているが、それはコンピュータ・シミュレーションの絶大な意義を過小評価するものである。コンピュータ・シミュレーションは、たんなる推論の方法ではない。それはもっと総合的な新しい科学の研究方法を提示しているのである。理論という方法(つまり適切な概念形成と厳格な定義、それに基づく推論)が古典ギリシャにまでさかのぼるのに対し、近代科学は実験という方法を取り入れることによって、大きな飛躍を遂げることができた。理論と実験の対話的展開がなければ、近代科学は今日見るような大きな成果を上げることはできなかったにちがいない。コンピュータ・シミュレーションは、理論も実験も適切に用いることのできない問題領域に新しい分析の可能性を与えている。それは、近代科学の成立以後のもっとも大きな革新の機会である。その可能性を十分に汲み上げることから、社会科学は新しいフェーズ(相)に入ることができる。

 われわれが自覚しなければならないのは、この大きな挑戦に取り組める状態にわれわれがあり、それを実現するのがわれわれに課された義務であるということである。アメリカやヨーロッパの状況とは違う与件をわれわれはもっているのであり、それをいかさなければならない。

 第3モードの研究法は、経済学にとっては、たんに新しい可能性であるばかりではない。新古典派時代の130年に蓄積した多くの異常(anomalies)から経済学が解放される機会でもあり、経済学の枠組みを更新する機会でもある。経済学の歴史でいえば、第3モードの科学研究法は、文学的・数学的に続く新しいディスクールを用意するものである。古典派の時代には、経済学はもっぱら散文によって展開された。限界革命以後は、数学が理論的記述の中心となった。それは論理の一定の厳密さをもたらしたが、他方では大きなわざわいの原因にもなった。経済学がまがりなりにも数学的に成功したことによって、経済学には数学的に定式化が可能な問題ばかりが科学的であるとの誤った信念がうまれた。それは多くの重要な問題を経済学から排除するとともに、現実から切り離された思弁へと経済学を押し込む結果となった。コンピュータ・シミュレーションは、数学的な定式化が困難な場合にも、多様な分析を可能にしている。このことによって、経済学は従来閉じこめられてきた理論的枠組みから抜け出すことができる。

 たとえば、経済学は、これまで、価格が安定状態に収束した状態を想定し、それを探し当てることにほぼ終始してきた。金融市場では、毎時・毎分価格が変わり、その価格変化にひとびとが反応して売買注文が出される。経済学者はそのことに気付いていたが、均衡理論はそれを定式化し、分析することができなかった。しかし、マルティ・エージェント・モデルによる分析では、このような市場過程を取り扱うことは容易である。このことは、いわゆる価格均衡の枠組みから経済学が自由になれることをも意味する。経済学は、価格均衡の枠組みを維持するため、多くの無理な状況設定をし、そのことを自らに正当化するため、多くの弁護論を紡ぎだしてきた。成立するであろう価格を独変数とする需要関数、供給関数の概念は、経済学に深く根付いた神話であった。この神話を守るため、たとえば消費者は効用を最大化でき、生産者は規模にかんする収穫逓減のもとにあると説明し、それが身近な観察と一致しないことに気付いて、さまざまな取り繕いをしてきた。このあたりのことは、塩沢(1983)および塩沢(1997a)第3章に詳しく書いたからここでは繰り返さない。このようなアノマリーに気付くひとは多かったにちがいない。しかし、そのような仮定を取り除いたとき、経済理論としてなにも残らないという不安があった。この不安が多くの経済学者たちをして前に進むことを躊躇させてきた。第3モードの研究法は、このような閉塞状態を打破するものである。それは旧来の経済理論を再検討する機運もたらしている。現に、最適化仮説を維持するために「これなくしては理論が成立しない」といわしめた無限合理性の仮定も、エージェント・ベースの研究者にとっては、極端な仮定のひとつでしかない。コンピュータ・シミュレーションにはむしろ限定合理性の方が定式化に適しており、そのような仮定を導入したエージェント・モデルがほとんど反省もなしに用いられている。

 第3モードの研究法は、このように経済学に大きな可能性をもたらしている。しかし、この可能性を現実のものとするには、乗り越えるべきいくつかの条件がいる。その第一の要件は経済学者と計算科学者・計算工学者たちとの協同である。

 このことは経済学者にとっては、ほとんど自明のことである。操作が簡単になってきたとはいえ、コンピュータを自在に使って新しい実験を行うのは経済学者にとって容易ではない。新しい構想に基づくコンピュータ実験を行うには、通常大がかりなプログラムを書かねばならない。統計分析でしばしば行われているようにパッケージを買ってくるというわけにはいかない。プログラミングに十分習熟していなければならない。進化経済学にとって、遺伝的アルゴリズムは重要な武器となるが、これを十分に生かすには相当高度の計算設計が必要である。大規模なコンピュータ実験には、多くの研究者の強力も必要である。これも経済学者のあまり慣れていないことである。この方面では、やはり一日の長である工学者たちの強力が必要である。

 反対に、計算技術にたけている工学者や物理学者が経済学に乗り込む場合はどうであろうか。かれらのバックグラウンドの固有技術が経済現象にうまく生かせる場合には、かなり大きな成果が期待できる。金融時系列に取り組んだ経済物理学がレビ分布を発見したのなどは、その良い例である。しかし、物理学やそのほかの自然科学の分析方法が有効な役割を果たせるのは、比較的狭い範囲・特殊な現象に限られると思われる。経済学の中心課題である経済発展やその底にある制度進化や技術進歩を理解するには、経済学者の泥臭い知識と問題意識とが重要になる。物理学者や数学者、工学者たちが経済学に乗り込むとき、かれらは過去の理論に縛られないという利点をもっているが、他方で過去の失敗を繰り返す可能性をももっている。新古典派の経済学が基本的に失敗であったとしても、その失敗の原因と理由とを深く理解しているかどうかは、今後目指すべき構想のよしあしに強く関係する。

 高度の計算技術と経済学および経済の実態に関する深い知識の二つをひとりの人間が体現するのは困難である。その意味で、経済学者と計算科学者・計算工学者たちとの協同はぜひとも必要なものである。進化経済学会には、なかば偶然の結果ながら、これら2種類の研究者が共存している。その意味で、新しい経済学の構築に向けた協力体制をつくりだす客観的な条件は整っている。しかし、このことは協力と対話の十分な条件ではない。わたしには、もうひとつ必要なものがあると思われる。それは、主体的な条件である。あえて苦言を呈すれば、多くの経済学者たちには、第3モードの研究にともに乗り出そうという意気込みが欠けている。われわれは絶好の人的組み合わせをもっているが、それを積極的に生かそうという主体的取り組みはまだ不十分である。これは2000年の東京大会のときに述べたことであるが、経済学者たちと計算科学者・工学者たちとがそれぞれ主導するセッションが設けられながら、その双方に顔を出す個人が少なく、両者がうまく混じり合っていない。これではせっかくの組み合わせをもちながら、その利点を生かせないであろう。

 このような実情の責任の大半は、経済学者が負わなければならない。進化経済学会に参加する計算科学者・工学者たちは、みずからの育った固有環境を離れて、経済研究という場に飛び込んできている。彼らを迎えて議論を持ちかけなければならないのは経済学者たちである。

 こうした事態の背景には、進化経済学会に集まる経済学者たちに共通する誤解があると思われる。進化経済学会は、多くは新古典派の経済学に不満であるか、それへの対抗を考える人たちの集まりである。新古典派の経済学はいろいろに特徴づけられるが、そのひとつが数学の利用である。数学的定式のできないものは科学ではないという信念において彼らは間違っている。しかし、それに不満をもち、対抗を考える人たちも、またその鏡像のような信念をもっている。簡単にいえば、かれらは数学を排除することが経済学救済の道であると考えがちである。かれらは、二つの点において、誤解している。ひとつは、数学への信念が新古典派を閉塞状態に追い込んでいることが正しいとしても、数学そのものが悪いのではないということである。問題なのは、数学的論理の世界から飛び出せない正統経済学者たちの保守的態度である。第二の誤解は、コンピュータによる計算と数学的推論との混同である。第3モードの科学研究法は、数学的推論の限界を見極める中から出てきた。これは複雑系諸科学の重要なメッセージであり、それを読み間違ってはならい。われわれは、第3モードの研究法に躊躇する点において、新古典派の経済学者たちと同じであってはならない。進化経済学会は新しい可能性に挑戦すべき跳躍台を提供している。このような環境条件は、どこにでもあるものではない。われわれはそのことを自覚し、それを生かす工夫をしなければならない。それが条件を与えられたものの義務である。


    [ 参考文献 ]
塩沢由典(1983)「近代経済学の反省」日本経済新聞社(絶版)。
塩沢由典(1990:1998)「市場の秩序学/反均衡から複雑系へ」筑摩書房。
塩沢由典(1997a)「複雑系経済学入門」生産性出版。
塩沢由典(1997b)「複雑さの帰結」NTT出版。


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